蔦重こと蔦屋重三郎は、2025年の大河ドラマ『べらぼう』の主人公です。
江戸中後期を描く大河ドラマは、数十年ぶりだとか。
その上蔦重を横浜流星さんが演じるということで、すでにワクワクモードです!
今回は大河ドラマに先駆けて、有名な絵師や作家たちを世に送り出した蔦屋重三郎の生涯を紹介します。
蔦屋重三郎の略歴
寛延3年(1750)1月 | 江戸吉原で生まれる |
安永元年(1772) | 新吉原の大門口五十間道で書店を開く |
安永3年(1774) | 初めての出版物『一目千本』刊行 |
安永6年(1777) | 正本・稽古本の出版を始める |
安永9年(1760) | 黄表紙・往来物の出版を始める |
天明元年(1781)以降 | 『吉原細見』を独占出版する |
天明3年(1783)9月 | 日本橋通油掛町に出店 |
寛政3年(1791) | 出版統制令で処分される/美人大首絵の発売 |
寛政6年(1794) | 写楽の役者絵を発売 |
寛政9年(1797)5月 | 脚気により死去 |
蔦重、吉原に生まれる
重三郎が生まれたのは、江戸時代中期から後期に入るころの寛延3年(1750)年のことです。
父・丸山重助は吉原で何らかの仕事をしていたらしく、重三郎が誕生した地は吉原でした。
重三郎が7歳の時、商家の蔦屋へ養子に入り、ここに蔦屋重三郎・蔦重の誕生となります。
吉原とは?
吉原は、江戸幕府公認の遊里です。
とはいえ、住んでいるのは遊女だけではありません。
遊女屋と取引のある商売人や飲食店も多くありました。
重三郎の叔父にあたる人も吉原で茶屋を営んでいたそうです。
吉原というところは、ただ遊女と遊ぶだけの場所ではありませんでした。
位の高い教養を持っていた花魁と遊ぶには、彼女たちに勝るとも劣らぬ教養を持っていなければ相手にされません。
特殊で知的な環境だった吉原で、重三郎はさまざまな影響を受け、多くのことを学んだことでしょう。
重三郎の書店
吉原大門口五十間道に重三郎が初めて書店・耕書堂を開いたのは、安永元年(1772)のことです。
吉原の出入り口は大門口だけで、その前の通りが五十間道と呼ばれていました。
耕書堂開店当初の主な仕事は、鱗形屋孫兵衛という地本問屋が発行する『吉原細見』の販売元でした。
『吉原細見』とは、吉原のガイドブックのようなもので、遊女屋・遊女の名前・遊女のランク・遊女の揚げ代・吉原のイベント日(紋日)などが紹介されたもので、毎年春と秋に刊行されていました。
この頃の『吉原細見』は、鱗形屋の独占状態。
新参者の重三郎は、販売するのみでした。
重三郎初出版!
しかしここで大人しくしていないのが、重三郎。
安永3年(1774)、重三郎最初の出版物は、遊女を花に見立てて紹介する変わり種『吉原細見』とも言うべきものでした。
それが『一目千本』です。
挿絵を担当したのは、こののち重三郎と長い付き合いになる絵師の北尾重政。
北尾重政は、山東京伝の師匠でもありました。
『吉原細見』出版へ
『一目千本』が出版された翌年、鱗形屋の使用人が出版上の重大な違反を犯します。
それが原因で、鱗形屋はその年の秋刊行予定だった『吉原細見』が出版できなくなりました。
これをチャンスとして動いたのが重三郎です。
重三郎は、鱗形屋のものよりも使い勝手が良く見やすい『吉原細見』を出版。
蔦重版の『吉原細見』は見事に当たり、数年後には『吉原細見』の出版が蔦屋の独占状態となりました。
安定した収益を確保せよ!
『吉原細見』は、年2回の定期刊行で安定的な売り上げが見込めました。
商売をするうえで確実に収益が計算できることほど、安心なことはありません。
そこで重三郎は、別の安定収益の確保も目指します。
それが、正本と稽古本、そして往来物です。
正本とは、当時はやっていた富本節(とみもとぶし)という語り芸能の楽譜のようなもので、稽古に使用するのが稽古本。
往来物とは、今でいう教科書のようなものです。
寺子屋や手習いには欠かせない往来物は、内容に大きな変化が必要なく、かつ長期にわたり安定した売り上げが出せる売れ筋商品でした。
重三郎はこれらを安定した経営の基盤としつつ、徐々に出版界の名プロデューサーとして頭角を現します。
多方面にわたる蔦重の交遊
重三郎は、才能ある若者を居候させたり、実績のある絵師や戯作者・狂歌師たちを吉原へ招いたりしながら、多方面へのネットワークを築いていました。
自らも蔦唐丸(つたのからまる)という名で狂歌師としての活動を始めます。
重三郎のネットワークは、黄表紙(風刺・ウイットに富んだ大人向けの小説)出版の際には、絵師で戯作者の山東京伝や絵師・戯作者・狂歌師の恋川春町、戯作者で狂歌師の朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの起用にもつながっています。
蔦重、日本橋へ進出!
乗りに乗っている重三郎は、天明の狂歌ブームの最前線に立ちます。
狂歌とは、和歌のように5・7・5・7・7という形式を持ちながら、わかりやすい言葉でシニカル・ユニーク・風刺的な内容を持った短歌です。
よく似たものに川柳がありますが、こちらは俳句と同じ5・7・5という形式です。
重三郎こと蔦唐丸はたびたび、太田南畝(おおたなんぼ)こと四方赤良(よものあから)や宿屋飯盛(やどやめしもり)こと石川雅望、手柄岡持こと朋誠堂喜三二、酒上不埒(さけのうえのふらち)こと恋川春町らと狂歌会を開きました。
重三郎、新たな構想がひらめく!
名だたる狂歌師の詠んだ歌を掲載した狂歌本がどんどんと売れていく中で、重三郎はまた新しい手を打ってきました。
それが、狂歌と浮世絵のコラボです。
もともと狂歌本は狂歌がずらっと紹介されているだけのものでしたが、重三郎はそこに挿絵をつけようと考えました。
その挿絵の担当として重三郎が抜擢したのが、喜多川歌麿です。
歌麿は、筆綾丸(ふでのあやまる)という狂歌師の名を持ち、重三郎と共に狂歌会にも出席していました。
というより、重三郎が出席させていたのかもしれません。
いずれは歌麿という絵師を大々的に売り出す、その準備として狂歌師と交流をさせていた…重三郎ならそれくらいのことは考えそうです。
歌麿が絵を担当した狂歌絵本は大人気となります。
蔦重の耕書堂は、吉原で小さな書店を開いてからたった10年余りで、一流地本問屋が並ぶ日本橋へ進出したのです。
地本問屋って?
地本とは江戸で出版される本の総称で、地本問屋とは江戸の版元・出版元です。
一般的な本屋は違い、企画から出版・販売まで行うマスメディアで、当時の世間においてはかなりの影響力を持っていました。
寛政の改革による弾圧
狂歌本や黄表紙などの文芸作品が華麗に花開き、蔦重が絶頂だった天明期が終盤となったころ、幕府で政権交代が起こりました。
第10代将軍・徳川家治が死去し、そのあとを家斉が継ぎます。
そして家治時代に権勢をふるった田沼意次が失脚、8代将軍・吉宗の孫である松平定信が老中となりました。
定信による寛政の改革が始まります。
田沼時代の汚職にまみれた政治を正し、潔癖さを求めた政治改革は、庶民たちへも大きな影響を与えました。
定信の政策を揶揄するような黄表紙が出版されると、その作者は執筆禁止などの命令が下されるなど、厳しい処罰が科せられます。
恋川春町は幕府の呼び出しを受けたのち、謎の死(おそらく自死)を遂げ、太田南畝も身の危険を感じて執筆活動を自粛しました。
寛政2年には出版統制令が発せられます。
草双紙(黄表紙などを含む)の新規出版禁止、みだらな表現のある本は絶版、そして出版元は風俗を乱すような本の出版を取り締まるように命じられました。
そんな中、当時最も影響力のあった重三郎は格好の標的となります。
山東京伝が著した洒落本が風紀を乱す本であるとされ、京伝は50日の手鎖刑に、重三郎は身上に応じた罰金刑が科せられましたのです。
身代が傾くほどの罰金ではないにしても、その後の出版活動には大きな影響が出ることとなりました。
重三郎の処罰は他の版元への見せしめでもあり、江戸の出版界の勢いは一気に冷え込んでいきます。
重三郎の巻き返し!
しか~し!こんなことでいつまでも落ち込んでいないのが、重三郎のすごいところ。
「黄表紙が駄目なら浮世絵だ」とばかりに、重三郎は歌麿に美人画を描かせます。
当時一世を風靡していたのは、重三郎のライバル出版元である西村屋与八が出版していた鳥居清長の全身美人画でした。
同じような美人画を描いても注目されない。
そこで重三郎は歌麿に、上半身だけを描いた「美人大首絵」を描かせたのです。
狂歌本で十分に名を知られていた歌麿の「美人大首絵」は大当たり。
歌麿は浮世絵界のトップに躍り出ます。
次に重三郎が手掛けたのが、役者絵です。
描くは東洲斎写楽。
寛政6年(1794)の5月からわずか10ヶ月の間に、一気に作品を出版するというとんでもないプロデュースを仕掛けます。
写楽の役者絵は、素顔のわからない謎の絵師が描いたという斬新な手法も功を奏し、一大ブームを巻き起こしました。
蔦重の死
写楽のブームから3年後の寛政9年、重三郎は脚気により病床につきました。
日増しに重くなる病状。
翌寛政9年5月6日。
死期を悟った重三郎は、家族や使用人を集めて今後のことを指示し、最期の時を静かに過ごしました。
ところが自分で予告した午の刻(お昼12時)になってもまだ生きている…。
重三郎は言いました。
「俺の人生は終わったはずだが、まだ拍子木がならない。遅いんでぇ!」
これは人生を歌舞伎の舞台に例えたもので、重三郎最期の言葉となったそうです。
その夕刻、重三郎は静かに息を引き取りました。
享年48歳。
エネルギッシュな重三郎の急ぎ過ぎた人生でした。
重三郎と江戸の文化人
重三郎は大変面倒見の良い人だったそうです。
歌麿をプロデュースしたほかにも、『南総里見八犬伝』の作者・曲亭馬琴は山東京伝を通して蔦重・耕書堂の手代をしていたり、『東海道中膝栗毛』の十返舎一九が重三郎のもとで寄宿していたりしています。
江戸を代表する天才(奇人?)の平賀源内は、蔦重版『吉原細見』の序文を書いたそうです。
琳派を代表する絵師の酒井抱一とも交流があったとか…。
重三郎の文化人ネットワークはいったいどこまで広がっていたのでしょうか。
もし蔦重という人物があの時代に現れなければ、歌麿の浮世絵も写楽の役者絵も、その他多くの文芸作品も世に出なかったかもしれません。
そう考えると、蔦重は現代においてもまだまだ大きな影響を与えているようです。
蔦重ってすごい!
蔦屋重三郎をもっと知りたいならおすすめはこれ!
バイタリティにあふれ、さまざまなアイデアで江戸の庶民を楽しませた蔦重。
江戸のメディア王・出版王とも言われる彼のことをもっと知りたい方のために、ここからはおすすめの書籍を紹介します。
蔦重の教え 車浮代
突然の早期退職を迫られたサラリーマン・武村竹男は、自暴自棄になって泥酔します。気付くとそこはなんと江戸の吉原!なぜか若返っていた竹男こと「タケ」は、命を助けられた蔦重のもとで暮らすことに…。
いわゆるタイムスリップものの時代小説ですが、江戸の風景や暮らしが生き生きと描かれ、蔦重が「タケ」に語る言葉の一つひとつが、現代に生きる私たちにも響いてきます。
蔦重の生き方や商いの心得なども、楽しく読みながら学べるビジネス書兼時代小説といった感じの本です。
稀代の本屋 蔦屋重三郎 増田昌文
蔦重を軸として、彼を取り巻く絵師や戯作者たちが描かれた小説です。史実に忠実に描かれている伝記小説的な本なので、蔦重の生涯がわかりやすく把握できます。ただ、多くの文化人が登場するので、頭で整理するのが大変な部分も…。
蔦屋重三郎 鈴木俊幸
蔦重について残された資料や文献から見えてくる人物像を詳しく描いた本です。江戸の出版についてある程度の知識がないと少し難しいかもしれません。
蔦屋重三郎と江戸文化 伊藤賀一
歴史人の別冊として2023年12月に出版されたものです。蔦重の生涯や彼が育てた「文人墨客」、蔦重が生きた時代についてなど、さまざまな面から蔦重の世界を紹介した本です。
蔦重が生み出した写楽ブームや吉原についてなども豊富な写真でわかりやすく解説されていてとても読み応えのある本でした。
江戸の蔦屋さん(コミックス) 桐丸ゆい
なんと言っても絵が可愛い!歌麿や写楽も味のあるキャラクターになっています。でもしっかりとした江戸の知識で裏付けされていて、江戸の暮らしや文化の勉強にもなる楽しいコミックです。
いろはむらさき(コミックス) 芽玖いろは
ひょんなことから知り合った蔦重と歌麿がバディになって新しい文化を生み出す痛快コミックです。
実は表紙の美しい蔦重に惹きつけられて、つい購入してしまったコミックでした。
フィクションでありながら、要所要所に史実が組み込まれているので、堅苦しい本はちょっと…という人にもおすすめです。
そして、ビジュアルは最高です。
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