関ケ原の戦いの前哨戦とも言うべき伏見城の戦いをあなたはご存知ですか?
徳川家康の家臣である鳥居元忠は、わずかの兵で石田三成を伏見に足止めし、家康に勝利をもたらしたと言われています。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、音尾琢真さんが演じられている鳥居元忠。
家康との堅い絆と、篤い忠義の心を持った鳥居元忠とは、どのような人物だったのでしょうか。
鳥居元忠の出自
鳥居元忠は、天文8(1539)年生まれで、天文11(1543)年生まれの徳川家康より4歳年上です。
元忠の父は鳥居忠吉で、家康の祖父・松平清康に仕えていた徳川譜代の家臣でした。
忠吉は、武士でありながら商人としての才覚も持ち合わせていたと言われ、三河が今川氏の属国となり、家康(当時は松平元康と名乗っています)が今川氏の人質となっている間も食糧や衣類を送るなどの支援をしていました。
忠吉の忠義
忠吉は、松平清康が亡くなった後、家康の父・広忠に仕えていました。
広忠亡き後、嫡男の家康を今川の人質として取られていた松平氏の勢いは衰える一方でした。
そんな松平を支え続け、人質となった家康への援助をしていたのです。
弘治2(1556)年、晴れて元服した家康が、岡崎城への一時帰還を許されたとき、若君を迎えて歓喜する家臣団から進み出た忠吉が、自宅の土蔵へ家康を案内します。
そこには、所狭しと多くの武器や武具、銭、兵糧が積まれていたのです。
「若君がいつのご帰還なされても、すぐに出陣する準備はこのようにできておりますので、なんのご心配もありません。若君の雄々しい姿をこの老体は楽しみにしております」
という忠吉の言葉に、家康は非常に感謝をしていたと言います。
元忠と家康の関係
忠吉の息子である元忠は、家康が今川氏の人質となっていたころから、彼に仕え始めています。
父・忠吉は物資の面で、そして父のこのような姿を見ながら家康への忠義心を強めていった元忠は、精神的な面から家康を支えていたのです。
家康と元忠の堅い絆は、それ以降揺らぐことなく生涯続きます。
今川からの独立
永禄3(1560)年5月19日。
桶狭間の戦いにおいて、今川義元が織田信長に討たれます。
家康は、空き城になっていた岡崎城へ戻り、その後今川からの独立を果たしました。
家康は織田信長と同盟を結び、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど次々と参戦します。
家康に従っていた元忠も、共に戦に加わっていました。
元忠負傷
ところが三方ヶ原の戦いの後、武田氏の支城・諏訪原城攻めの際には、斥候(せっこう:スパイのような活動)を勤めますが、元忠は鉄砲で足を撃たれたのです。
この傷が元で、元忠は左足が不自由となってしまいます。
戦国武将にとって足の自由が利かないことは、致命傷です。
しかし、元忠の忠義心と家康からの信頼は揺らぐことがありませんでした。
この後も元忠は家康の側近くに仕え続けるのです。
元忠の戦い
元忠は、家康とともに戦い続けます。
天正3(1575)年、長篠の戦いでは、石川数正とともに馬防柵の設置を行い、天正9(1581)年には高天神城の戦いに出陣しています。
天正10(1585)年6月、本能寺の変で織田信長が討たれた後、家康は甲斐国を攻め取ろうとします(天正壬午の乱)。
同じように甲斐国を狙っていた北条氏政・氏直軍に攻められ、家康は背後を襲われますが、元忠が北条軍1万余りをわずか2千の兵で退け、300余りの首級を挙げています。
この戦功で、元忠は甲斐国都留郡(現山梨県都留市)を拝領し、谷村城主となりました。
元忠、女を隠す
長篠の戦いの後ににちょっとおもしろい逸話が残っています。
家康が、武田の名将・馬場信房の娘を差し出すようにと元忠に命じているのですが、元忠はどこを探しても見つからず、行方知れずになっていると報告したのです。
しかし、しばらくして他の者からその娘の所在が分かったというので、家康が聞いてみるとなんと「鳥居(元忠)が匿っています」との返答でした。
家康は怒ることもなく「仕方ない奴だ」とばかり苦笑したそうです。
なんと元忠は、ちゃっかりこの娘を側室にしていたのです。
そして三男一女をもうけています。
この娘に元忠が惚れこんだのか、誉れ高き武将の娘にあやかったのかはわかりませんが、あの元忠が…と思うと不思議に可愛い。
堅物元忠
元忠は、相変わらず家康のもとで戦いに明け暮れる毎日。
世は豊臣秀吉の時代となり、その計らいで徳川家の家臣に官位が授けられることになります。
当然、元忠にも官位が授けられるはずだったのですが…。
「私は不才(才能が乏しいこと)でありますので、二君に尽くすべき道をわきまえておりません。しかも、三河の田舎武士、万事粗忽ですので、殿下の前でどんな粗相をしでかすかわかりません」
と固辞したのです。
秀吉は、元忠の嫡子・忠政を秀吉の近臣である滝川雄利(かずとし)の養子にするように勧めたこともあります。
間接的に元忠を自分の家臣にしようと企んだようですが、元忠は当然のごとく拒否。
また、秀吉の小田原征伐の時も、元忠の戦功を称えて感状を与えようとしても「私は豊臣家の家臣ではありませんので、感状をいただくいわれがございません」と断ったと言います。
ここまで徹底していると、もう見事としか言いようがありません。
かくして家康と元忠の絆はどんどんと固くなっていくのです。
家康が関東に移封されると、元忠は下総・矢作(現千葉県香取市矢作)四万石を与えられました。
徳川譜代の大名として堂々たるものです。
元忠最期の晴れ舞台
慶長3(1598)年8月。
豊臣秀吉が死去し、天下に最も近い人物は、徳川家康となっていました。
豊臣政権は今や風前の灯火です。
そして慶長5(1600)年。
すでに家康と石田三成の激突は避けられないところまで来ています。
家康は、謀反の疑いがある会津の大名・上杉景勝を討つために大軍を率いて東北へ向かいます。
しかしこれは、石田三成を誘い出すための方便。
必ず挙兵する石田三成に徳川軍の背後を突かれないためには、それを食い止める兵が必要です。
最も大坂に近く最も危険な最前線となるのがが伏見城でした。
家康は、この伏見城に元忠を置きました。
元忠の役割は、石田三成をおびき寄せ、出来る限り足止めをさせることです。
徳川軍が大阪を出立し、会津へ向かう途中の6月16日、家康は伏見城に寄っています。
元忠に会うためです。
天下分け目の戦に備え、ひとりでも多くの兵を参戦させるために、伏見城に残された兵は、わずかに1800余り。
家康は、城に残せる兵が少ないことを詫び、少しでも矢玉を置いていこうと気遣うが、
「城はこれだけの兵があれば十分です。もし三成に攻められたら、討ち死には必定。殿が天下を取るためにはできるだけ兵を残すことが肝要です。これが今生の別れ。殿、天下をおとりください」
元忠の言葉に、家康も目頭を押さえた。
酒を酌み交わし最後の時を過ごす。
家康は東へ、元忠は籠城。
それぞれの思いを胸に戦いの時を迎える。
元忠最後の戦い
家康が大坂を発ち、東へ向かうと、石田三成は予想通り挙兵しました。
三成率いる西軍は約4万。
伏見城を守るのは、元忠を始め1800人余りの兵。
万に一つの勝ち目もありません。
ところが、元忠たちはなんと13日間も粘ったのです。
壮絶な戦いの末…
8月1日、元忠は、雑賀衆の長・雑賀孫市との一騎打ちに敗れ、討ち死にしました。
一説には、元忠が自刃し、孫市が介錯をしたとも言われています。
元忠享年62。
三河武士の鑑とも言うべき壮烈な最期でした。
関ケ原の戦いで家康が勝利するのは、この2週間後のことです。
伏見城の激戦を物語る血天井
伏見城における激戦は、城内のあちこちに残っていた血染めの畳や廊下が物語っていました。
家康は、彼らの忠義を称えるため、江戸城の伏見櫓の天井に、血染めの畳を設置させたとされています。
また、伏見城にあった血染めの床板は、武将たちの供養のため、京都市や近郊の寺院の天井に用いられ、血天井として知られています。
現在でも見ることのできるこれらの血天井は、よく見ると手の跡らしきものもあり、未だ生々しさが残っています。
伏見城の遺構:血天井のある寺院
京都市とその近郊で血天井が見られる寺院は、次の5ヶ所です。
元忠たちの覚悟とその雄姿に思いを馳せながら、ぜひご覧ください。
終わりに
絶対に死ぬとわかっていて、それでも勇ましく戦い続ける鳥居元忠の姿は、まさに戦国武将そのものです。
私たちには想像もつかない驚異の胆力を持ち、家康への篤い忠義心がなせるとてつもない行動。
戦の世の中では、それが誇りとされていました。
ですが、残された人々、女性や子供たちにとっては、生きていてほしかったという思いもあったことでしょう。
このように歴史を見ていると、華々しく生きた人たちのその後ろには、どれだけの哀しい思い、辛い思い、悔しい思いをした人たちがいたのだろうと考えてしまいます。
歴史に名を残した人を紹介しながらも、名もなき人々の思いを想像する、そんな時間も大切ではないでしょうか。
今回は、ちょっと真面目に終わってみます。
ではまた。
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