日本のシェイクスピアと呼ばれた近松門左衛門 生涯と主な作品を紹介

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歴史人物
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ネットや情報番組でセンセーショナルに取り上げられることの多い、有名人の不倫や不祥事。

他人事だけに、毎日の生活のちょっとした刺激になるからでしょう。

ある意味無責任な人の心は、昔から変わらないものだったのです。

江戸時代の初期から中期にかけてに活躍した近松門左衛門は、そんな人たちの心をわしづかみにした劇作家・脚本家でした。

「日本のシェイクスピア」とも称される近松門左衛門とは、どんな人物だったのでしょうか。

彼が生み出した作品とともに、紹介しましょう。

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武士の子から浄瑠璃作家へ

承応2年(1653年)、近松は、越前福井藩藩士・杉森信義の次男として生まれました。

本名を杉村信盛と言い、十代の後半ごろまで越前に住んでいたと考えられています。

その後、何らかの理由で父が浪人となり、近松は家族とともに京へ移り住みました。

近松、浄瑠璃と出会う

近松は、生活のために後陽成天皇の第九皇子・一条恵観や正親町公通おおぎまちきんみちなど公家の屋敷で働きました。

教養豊かな公家のもとで働くうち、近本も多くの知識や教養を身に着けていきます。

一条恵観や正親町公通は、当時京で流行っていた浄瑠璃にも親しみ、芝居一座・宇治座を興した宇治加賀掾かがのじょうとも交流がありました。

特に公通は、加賀掾に浄瑠璃の台本を提供していたこともあり、近本もその縁で浄瑠璃に接する機会があったのだと考えられます。

浄瑠璃に登場する人形

近松が20歳ごろに、一条恵観が亡くなります。

それからしばらくして、近松は公家への奉公勤めをやめて、加賀掾のもとで修業を始めました

近松、浄瑠璃を書く

天和3年(1683年)

近松は、加賀掾のために初めて浄瑠璃の本を書きました。

曽我兄弟仇討の後日談を描いた世継曽我よつぎそがは、大人気となり、劇中のセリフ「さりとても 恋はくせもの」が流行語になるほどでした。

翌年、加賀掾の弟子・竹本義太夫が独立して大坂道頓堀で竹本座を興します。

その旗揚げ公演として上演したのがなんと「世継曽我」です。

これが大評判となったことで、加賀掾は憤慨しました。

加賀掾は、大坂へ進出し、竹本座と競うようになりました。

しかしその翌年、宇治座は失火が元で大坂を去り、竹本座の独り舞台となります。

貞享2年(1685年)、近松は義太夫に依頼され、彼のために出世景清しゅっせかげきよという浄瑠璃本を書き下ろしました。

これがまたまた大当たり。

竹本座と義太夫は、大人気となりました。

それからしばらくして、近松はペンネームの「近松門左衛門」を使うようになります。

武家という生まれを捨て、劇作家として生きる覚悟を表していたのかもしれません。

しかし、浄瑠璃は、作家の意向よりも、語り手の芸風や好みによって、脚本が変えられることがありました。

劇作家としては、納得できないこともあったようです。

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歌舞伎との出会い

そのころ京では、都万太夫座の初代坂田藤十郎が、人気を博していました。

藤十郎は、歌舞伎の「和事」(柔らかく優しい女性的な情緒を持った芸風)や「やつし」(身分の高い人がそれを隠した演技)が得意な役者です。

すでに高い評判をとっていた藤十郎でしたが、彼は新たな歌舞伎を模索していたのです。

そこで見いだされたのが、近松でした。

藤十郎と近松

元禄6年(1693年)、近松は都万太夫座の座付作家(一座専門の作家)として迎えられます。

才能あふれる藤十郎のもと、近松は「けいせい仏の原」「けいせい壬生大狂言」など、次々と名作を出しました。

歌舞伎の世話物を書くことで、近松は新境地を見出しました。

世話物

江戸時代の庶民の風俗・暮らしを背景とした演目。今でいう現代劇

江戸より前の時代を描いた演目は「時代物」

やがて、藤十郎にも衰えが見え始めます。

宝永5年(1708年)、藤十郎は第一線を引き、翌年亡くなりました。

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再び浄瑠璃の世界へ

歌舞伎が大人気となる一方、人形浄瑠璃の人気は陰ってきました。

その中で奮闘していた義太夫は、再び近松に声をかけます。

義太夫は、近松の実績を認め、作者の意向に重きを置くことを約束したうえで、浄瑠璃作家として近松を迎えました。

近松と義太夫

元禄16年(1703年)、近松は「曽根崎心中」を書き下ろします。

それまでの人形浄瑠璃とは一線を画し、歌舞伎の世話物を取り入れたこの演目は、大評判となりました。

これを機に、人形浄瑠璃は、演劇として発展してゆくのです。

同世代の近松と義太夫は、お互いに切磋琢磨して、名作を送り出しました。

近松と浄瑠璃と歌舞伎

正徳4年(1714年)、初代竹本義太夫が亡くなった後も、近松は精力的に浄瑠璃本を書き続けました。

2代目義太夫のために書いた国性爺合戦こくせんやがっせんは、17ヶ月ものロングランとなったのです。

この大好評を受け、「国性爺合戦」は、歌舞伎でも演じられます。

以来、人形浄瑠璃の演目を歌舞伎でも演じることが多くなりました。

 

浄瑠璃と歌舞伎に多くの作品を残した近松は、亡くなる少し前まで、執筆を続けました。

享保9年(1725年)11月22日

近松門左衛門は多くの名作(わかっているだけで約150本)を残してこの世を去りました。

享年72歳。

辞世の句は、2句残っています。

「それぞ辞世 去るほどに扨(さて)もそのゝちに 残る桜か花しにほはゞ」

私の死後も作品が世間に残ってゆくのなら、それこそ辞世だ

「残れとは思ふも愚かうずみ火の けぬまあだなる朽木書きして」

埋火が消えるまでの間に書いたような儚い本が、後の世に残ってくれと思うのも愚かなことだ

正反対の意味を持った2句ですが、どちらも劇作家としての気持ちが表れている句だと思います。

近松は、武士という生き方を捨て、劇作家として生きた人生に満足していたのではないでしょうか。

近松門左衛門が残した主な作品

多くの近松作品の中で、よく知られている本のあらすじと見どころについて、紹介します。

出世景清(しゅっせかげきよ)

「出世景清」の主人公は、実在した藤原景清という人物です。

源平合戦の時、平家に従っていた藤原景清が、源氏への復讐を企て、源頼朝の命を狙う物語に、小野姫と阿古屋あこや姫という2人の女性との関係も絡んでくる作品です。

景清は、武芸に優れ、”悪七兵衛”という異名を持っていました。(悪には力強いという意味もあります)

史実の上の景清は、壇ノ浦の戦い後の捕らえられ、食を絶って亡くなったと伝えられています。

この作品は、武士としての義と彼を慕う女性の哀しさがとても印象深い物語で、私はとても好きな作品です。

簡単にあらすじを紹介しましょう。

源氏への復讐を計画している景清は、熱田神宮の宮司の娘・小野姫と結婚し、彼女に匿われていました。

しかし、頼朝の重臣を討とうとして失敗し、京へのがれます。

そこには、景清との間に2人の息子を産んでいた遊女・阿古屋姫がいました。

小野姫への嫉妬心から、阿古屋姫は、兄が景清の居場所を密告するのを黙認してしまいます。

かろうじて逃げた景清でしたが、彼の代わりに小野姫とその父・熱田神宮の宮司が牢に入れられました。

彼女たちを助けるために、景清は、自ら捕らえられます。

自分のしでかしたことに深く後悔した阿古屋姫が、景清のもとへやってきますが、彼は許しませんでした。

悲嘆にくれた阿古屋姫は、2人の息子たちと自害してしまいます。

景清は、彼女たちの死を前にして、号泣するのです。

その後、処刑が決まった景清でしたが、寸前で彼が日ごろから信奉していた清水寺の千手観音に救われたのです。

その奇跡を知った源頼朝は、景清を許し、領地まで与えました。

景清は、これまでのことを悔やみ、そして頼朝の姿を見ることで、再び復讐心が起こらないように、自らの両眼をえぐって、頼朝にささげ、どこかへ去っていきました。

登場人物それぞれの切ない思いや、景清への愛情が絡みあう場面や、最後の場面がとても印象深く、私の好きな近松作品の1つです。

曽根崎心中・心中天網島

どちらも世話物で、心中事件を取り上げた作品で、高い評価を受けています。

「曽根崎心中」は、女郎の初と商家の手代・徳兵衛が、大坂天神の森で心中した事件を、「心中天網島」は、紙屋の治兵衛と女郎の小春が、大坂・網島の大長寺で心中した事件を元に描いています。

特に「心中天網島」は、治兵衛の妻・おさんが、治兵衛と義理堅い小春のために、必死に行動する様子が、悲哀を感じさせます。

一番の代表作とも言われる「曽根崎心中」の見どころの一つに、「足問答」があります。

これは、2人の中を周囲に反対されながら、徳兵衛がお初に会いに来ていた時、ほかの客がやってきたために、お初の衣の裾に徳兵衛が隠れるところから始まります。

お初は何食わぬ顔で、客とおしゃべりしていますが、その会話に嫉妬したり、心配する徳兵衛が、お初の足元で、震えたり怒ったり。

それを、お初の白い足が、なだめるように動きます。

セリフには表れない足の表情と徳兵衛とのやり取りが、色っぽくもあり、面白くもある、注目の場面となっています。

歌舞伎での「足問答」と人形浄瑠璃での「足問答」にも、それぞれ特徴がありますので、機会があれば、一度ご覧になってください。

1978年には、宇崎竜童さんと梶芽衣子さんで「曽根崎心中」のドラマが放映されています。

その中でも「足問答」のシーンがあります

国性爺合戦(こくせんやがっせん)

国性爺とは、中国の明の時代に実在した軍人・鄭成功ていせいこうのことで、彼は新しく興った清国に抵抗した人物です。

鄭成功は、最後は台湾に渡り、今でも「国姓爺」という俗称で親しまれています。

近松は、「国爺」を「国爺」と一文字だけ変えて、時代物として創作しました。

この作品は、明国の忠臣・鄭芝龍ていしりゅうと日本人の妻との間に生まれた国性爺が、中国に渡り、明の国を再興するために、活躍するという壮大な物語になっています。

この演目の中で、ある交渉があり、成立すれば白粉を、不成立なら紅を堀に流すという「紅流し」という場面があります。

紅流しの場面

これは、黒澤明監督の「椿三十郎」の中にも取り入れられています。興味のある方は、ご覧になってください。(クライマックスの手前くらいです)

女殺油地獄

この作品は、大坂の油問屋河内屋徳兵衛の息子・与兵衛が、同業の豊島屋の女房・お吉を殺した事件を元に書かれています。

近松の世話物作品には珍しく、恋愛が絡むわけでも、心中事件が起こるわけでもありません。

一言でいえば「衝動殺人」を描いた作品です。

放蕩三昧、今でいえば不良青年のような与兵衛は、借金まみれでどうにもならなくなって、たまたま知り合いだったお吉に金を貸すように迫ります。

しかし、断られると逆上して、お吉をめった刺しに。

お吉を殺した与兵衛は、お金を取って知らぬ顔で遊里へ行きます。

お吉が殺されて35日後、忌明けの日に、徳兵衛は捕まりました。

私は、この作品を松田優作さん(松田龍平・翔太さん兄弟のお父さん)主演のドラマで初めて見ました。

30年以上も前ですが、松田優作さんの血だらけ、油だらけで鬼気迫る表情は、今でもはっきりと思い出せます。

とても怖くて恐ろしい話でした。

原作を大幅に変えた形ですが、1992年には、五社英雄監督、堤真一さん、樋口可南子さんというキャストで映画にもなっています。


近松の作品の中でも異質だったためか、江戸時代を通じてあまり人気はなかったそうです。

でも明治に入り、再評価されてからは人気の演目になっています。

近松門左衛門をもっと知りたいあなたにおすすめの本

最後に、近松をもっと知るために読んでおきたいおすすめ本を紹介します。

週刊誌記者 近松門左衛門   小野幸恵 監修:鳥越文蔵

庶民の間で起こった事件を元に本を書いていた近松を、今なら週刊誌のエース記者のような存在と考えた著者による、近松の実像に迫った解説本です。

「曽根崎心中」と「女殺油地獄」が、一部の原文とともに現代語訳で乗せられています。

作品のリズムや、見どころなどが良くわかる興味深い本です。

近松門左衛門 ビギナーズクラッシックス 日本の古典  井上勝志:編集

近松の主な5作品のあらすじと解説が書かれた本です。

ダイジェストで原文と現代語訳が載っていますので、古典の初心者にも楽しく読み進められると思います。

浄瑠璃を読もう  橋本治

近本を含めた浄瑠璃の演目が紹介されている本です。

それぞれの演目の筋を、わかりやすい文章で解説しながら、浄瑠璃の面白さを紹介しています。

浄瑠璃をご存じない方でも読みやすく楽しいので、この本を読めば浄瑠璃が見たくなるかもしれません。

「ちかえもん」  2016年放映

こちらは書籍ではなくドラマですが、とても面白かったのでおすすめします。

竹本義太夫に次の脚本を書くように催促される近松ですが、スランプに陥って全然筆が進みません。

そんな時、ある若者と女郎に出会い…。

「曽根崎心中」誕生秘話を大胆に創作して、生き生きとした人々の暮らしが描かれています。

どうしてもアイデアが浮かばなくて苦悩する近松を松尾スズキさんが、竹本義太夫を北村有起哉さんという個性的な役者さんが演じ、コメディーかと思いきや、最後は人情深い人々や、悲しい結末に泣かされます。

独特な世界観の中に、ほろっとする人情喜劇が入り込んだようなドラマ。

近松がとても身近に感じる作品です。

終わりに

今回は、浄瑠璃・歌舞伎の劇作家・近松門左衛門についてお話ししました。

元禄文化の代表的な人物として、教科書にも載っている近松ですが、こうやって生涯を追い、作品を見ると、紙の上の文字ではなく、人間としての近松に近づけるような気がします。

もし、近松に興味を持っていただけたら、そして浄瑠璃や歌舞伎、その他の近松作品を見てみようと思っていただけたら、とてもうれしいです。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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