新選組の史料によく出てくる隊士たちの錦絵を描いたのが、今回紹介する中島登(のぼり)です。
新選組隊士として中島の名前が出てくるのは、大政奉還が行われた慶応4年(1867)10月頃ですが、実際はもっと早い時期から探索活動をしていたといわれています。
戊辰戦争後の謹慎期間中に描かれた『戦友姿絵』に、中島はどんな思いを込めたのでしょうか。
今回は中島登の生涯と共に、彼の秘めた思いを探ってみます。
中島登の略歴
天保9年(1838)2月25日 | 武州多摩で生まれる |
安政3年(1856)9月頃 | 天然理心流に入門 |
安政4年(1857) | 安藤ますと結婚 |
元治元年(1864) | 新選組入隊 |
慶応3年(1867) | 新選組と合流 |
明治2年(1869)5月15日 | 弁天台場にて降伏 |
明治15年(1882) | 沢木ヨネと再婚 |
明治14年(1881) | 栽培した葉蘭でひと財産を得る |
明治17年(1884) | 中島鉄砲火薬店開業 |
明治20年(1887) | 浜松にて死去 |
中島登の生い立ち
中島登が生まれたのは、武州多摩郡小田野(現・東京都八王子市)です。
八王子千人同心の中島又吉の長男として誕生しました。
幼名を峰吉、その後登一郎(登市郎)と名乗っています。
登と改名したのは、安政4年(1857)に安藤ますと結婚したときです
新選組ファンなら気付いたと思いますが、中島は近藤や土方と同じ地方の生まれです。
一説には近藤の遠縁にあたるとも。
八王子千人同心とは?
江戸幕府初期、徳川家康は西からの敵に備えて、八王子に武士団を置いて甲州街道の見張りをさせていました。
彼らは江戸の下級役人の同心で、その数が千人ほどいたことから八王子千人同心と呼ばれるようになります。
同心たちの多くは八王子周辺で農業をしながら、見回りや消火活動などを行っていました。
新選組隊士では、中島登のほかに試衛館メンバーでもある井上源三郎も八王子千人同心の家の生まれだったことが知られています。
天然理心流に入門
半農半士の家に育った中島は、幼いころから武芸を志していました。
安政3年(1856)には、天然理心流の山本満次郎に入門。
師匠の山本は、天然理心流2代目・近藤三助の弟子でした。
中島は、山本に師事して天然理心流中極位目録を得ています。
ちなみに3代目・近藤周助が近藤勇の養父で、近藤勇は4代目!
新選組の密偵として…
中島の名前が出てくるのは、鳥羽伏見の戦い後です。
しかし、中島が残した『中島登覚書』によると、元治元年に入隊したとあります。
この年、近藤勇は江戸へ隊士募集に出かけていますので、おそらくその際に入隊したのではないでしょうか。
ただ近藤は、同郷の門人たちが入隊するときには長男や妻帯者を除いていたため、妻子持ちの中島は正式な入隊が許されなかったと考えられます。
『覚書』によると、武相甲三国(武州・相模・甲州)の地理・人気を調べる仕事を命じられていたようです。
中島が探索活動をしていた記録は残っていませんが、仕事が仕事なので記録がないのが正解かもしれませんね。
同時期に、中島はますと離縁しています。
そのうえ、千人同心の同僚を斬って行方知れずになったそうですが、これは探索活動に入るために工作された事件かもしれません。
新選組正式入隊
中島が正式に新選組に入隊したのは、慶応3年(1867)10月頃のことです。
徳川慶喜が大政奉還を行い、幕臣となっていた新選組の立場も不安定なものとなっていた時期。
入隊後の中島は、局長付きとして近藤の警護を命じられています。
翌慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いでは中島も参戦していますが、敗退して江戸へ下りました。
土方と共に
江戸へ下った新選組は、名を「甲陽鎮撫隊」と変えて甲府城へ向かいます。
しかし、一足先に甲府城を押さえた薩長軍改め新政府軍との戦いであえなく敗退。
流山で再起を図った新選組ですが、近藤勇が新政府軍に捕縛されます。
近藤奪取作戦!
中島は、土方の命で近藤を救出すべく行動を開始。
大工に変装した中島は、近藤をとらえた新政府軍を追尾しますが、敵方の堅い守備に阻まれて失敗しました。
蝦夷へ
旧幕府軍に加わって戦い続ける新選組。
その中には中島の姿もありました。
土方と行動を共にして宇都宮・日光口・会津と転戦、仙台で合流した旧幕府海軍とともに蝦夷(北海道)へ渡ります。
箱館戦争
慶応4年改め明治元年(1868)
箱館を押さえた旧幕府軍は、五稜郭で箱館政府を樹立。
しかしそれを新政府軍が放っておくはずがありません。
翌明治2年春、新政府軍が本格的に攻撃を開始します。
中島は、第2分隊嚮導(きょうどう)役となって活躍。
同年5月11日土方歳三が戦死し、中島はじめ新選組は弁天台場で籠城しますが、兵糧・弾薬が尽きたため、5月15日に降伏しました。
『覚書』の中で、中島は自身の戦いについてこのように記しています。
東京脱走より砲弾の下を潜ること三十一回、白兵戦を戦うこと七回、しかしついに無疵
『中島登覚書』より
明治以後の中島登
中島は捕虜として、弘前藩・青森・弁天台場などを転々とし、明治3年(1870)5月初めに静岡藩お預けとなります。
同月中旬に赦免されると郷里の多摩へ帰った中島でしたが、間もなく静岡へ戻って原野開墾に尽力します。
ここで再会したのは、伝習隊の大島清慎(寅雄)です。
大島は、会津戦争で重傷を負った際に中島が救護所まで運んだ人物です。
土方の最期に立ち会い、五稜郭に知らせたのが大島だったとも伝わっています。
大島と意気投合した中島は、浜松で定住することを決意。
明治12年(1879)2月に長男・登一郎を呼び寄せ、明治15年(1882)には魚屋沢木半平の長女・ヨネと再婚しました。
趣味の葉蘭が爆売れ!
この頃は比較的余裕のある暮らしだったようで、中島は趣味で葉蘭の栽培を始めています。
葉蘭栽培で偶然誕生した新種が品評会で「金玉廉(きんぎょくれん)」と名付けられて大注目されました。
「金玉廉」が爆売れしたことで、中島は相当なお金持ちに!
鉄砲店開業
明治17年(1884)葉蘭で築いた財産で中島は、鉄砲火薬売買の免許を取得して「中島鉄砲火薬店」を開業しました。
穏やかな余生を過ごしていた中島ですが、鉄砲店開業の2年後に妻のヨネを亡くします。
翌明治20年(1887)4月2日。
中島登は浜松にて死去しました。
享年50歳。
密偵という特殊な任務をこなした幕末、そして画才・商才を芽生えさせた明治。
新選組隊士としては特異な経歴の持ち主だった中島は、静かに逝きました。
『戦友姿絵』に込められた思い
中島が『戦友絵姿』を手掛けたのは、弁天台場での降伏後、幽閉されている間と伝わっています。
これを描いた動機を中島自身は
「虜囚(捕虜)となった鬱屈と、戦死した同志への追慕と慰霊のために…」
と書いています。
内容は、旧幕府軍軍艦開陽丸から始まり、中島の自画像・近藤勇・土方歳三以下26名の新選組隊士と旧幕府軍5名、最後にアイヌの親子が描かれています。
この中では、斎藤一など生き残った人が戦死者とされていますが、これは中島の思い違いか、この時点では戦死していると考えられていたせいでしょう
絵姿それぞれには追慕の言葉が添えられていますが、その中でも有名なのが土方歳三の絵に描かれたものです。
「年ノ長スルニ従ヒ 温和ニシテ 人ノ帰スルコト赤子ノ母ヲ慕フガ如シ」
『戦友絵姿』より
慶応3年秋まで探索活動を行っていた中島は、鬼の副長と恐れられた土方を実際にはあまり見ていなかったのかもしれません。
ただ人づてに聞いていた恐ろしい土方とは異なってとても魅力的な土方を、中島は慕っていたのではないでしょうか。
近藤勇さんの絵は諸説あり、
近藤さんの首と向き合っているのは、歳三さんではないかという解釈もあるそうです
虎の敷物、近藤家家紋が縦に…など近藤さんの無念を引き受けた歳三さん、そんな2人の関係の概念が描かれているのかもしれませんね
皆さんはどうお感じになりますか→ pic.twitter.com/MC9MMxgsS6
— 土方歳三資料館 (@toshizoofficial) May 2, 2023
『戦友絵姿』に描かれている人物は、どれも歌舞伎に出てくるような顔形。
どうやら中島は、同志の姿をそのまま残したかったわけではないようですね。
本当の目的は、絵に添えられた追慕の言葉にあるのでは?
つまり、彼らへの中島登自らの思いです。
そしてもう一つ、これらの絵が後世に残ることを見通して、彼らがどんな人間でどのような志を持って生きたのかを書き残しておきたかったのではないでしょうか。
「勝てば官軍」という言葉通り、歴史は勝者に都合よく書き換えられるもの。
明治の時代には確実に悪者呼ばわりされる新選組・旧幕府軍の武士たちについて、その真の姿を少しでも残すことが、自らに出来る供養であり、生き残った者の使命だと考えていた…。
中島の真意はわかりませんが、私にはこう思えてなりません。
あなたは…どう思いますか?
参考文献
『新選組大事典』 新人物往来社
『新選組隊士伝』 歴史群像シリーズ 学研
『新選組史料集』新人物往来社
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