徳川の時代が終わり、明治の新しい風が吹き始めた頃、元新選組隊士が人知れず切腹して果てました。
彼の名は、相馬主計(そうまかずえ)、新選組最後の局長です。
土方歳三に代わって新選組を任された相馬主計とは、どんな人物だったのでしょうか。そして、彼はなぜ切腹したのか。
今回は、相馬主計の生涯を追ってみたいと思います。
相馬主計の経歴
相馬主計が、新選組に入隊したのは、慶応3年(1867年)6月以降と考えられています。新選組に入隊するまで、相馬はどのような人生を生きていたのでしょうか。
相馬主計の生い立ち
相馬は、常陸国笠間藩(現・茨城県笠間市)藩士・船橋平八郎の子として生まれています。
生年は、天保6年(1835年)・天保14年(1843年)・弘化3年(1846年)という3つの説があります。
本名は、船橋太郎と名乗っていたようですが、慶応元年(1865年)に笠間藩を脱藩してからは、相馬姓を名乗っていたようです。
脱藩後の相馬
笠間藩を脱藩した後は、幕府の慶応2年(1866年)の第二次長州征伐に従軍しています。
この時は、三津浦(現・愛媛県松山市)に駐屯しましたが、14代将軍・徳川家茂の急死により長州征伐は中止になりました。
相馬は、そのまま松山に残り、松山藩士の竹内某に仕えていたようです。
新選組入隊
相馬の名が、新選組隊士として登場するのは、慶応3年(1867年)12月の編成表からです。
永倉新八が残した『新撰組顛末記』では、平隊士の中に相馬主計と書かれています。
鳥羽伏見の戦い
相馬は、慶応4年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いに、新選組隊士として参戦しています。
しかし、賊軍の汚名を着せられた幕府軍は惨敗し、大坂へ敗走しました。
大坂城を枕に最後の一戦に挑もうと考えていた幕臣や各藩、新選組らから逃げるように将軍徳川慶喜が江戸へ帰ってしまうと、後に残った彼らも江戸へ引き上げることになります。
相馬は、ほかの新選組隊士とともに、江戸へ向かいました。
新選組局長・近藤勇捕縛
新選組は、新たな隊士を募集し、新政府軍(薩長軍)との戦いを続けますが、流山に陣を構えているときに、新政府軍に包囲されてしまいました。
新選組局長・近藤勇は、大久保大和という偽名で新政府軍に投降します。
永倉新八の残した『浪士文久報国記事』には、近藤に付き従った新選組隊士として、野村利三郎と相馬の名が出ています。
ところが『島田魁日記』には、野村利三郎と村上三郎という隊士が従ったとあります。
相馬は、近藤の助命嘆願書を持って、近藤が捕らえられていた板橋へ訪れたところで、捕縛されたと書かれています。
この頃、相馬は局長附きでしたので、どちらにしろ近藤と共に捕縛されていたことは間違いありません。
近藤に助けられた相馬
大久保大和という偽名で、取り調べを通そうとした近藤でしたが、高台寺党の残党により、新選組局長だということが見破られます。
近藤の処刑が決まり、相馬と野村も共に処刑されることになりました。
しかし、近藤の嘆願により、相馬・野村は処刑を免れます。
慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首されました。
相馬と野村は、局長の最期を見届けたのでしょうか。
もしそうなら、斬首でありながら最期の瞬間まで毅然とした近藤の姿は、相馬と野村に大きな衝撃と感銘を与えたに違いありません。
「土方副長に局長の最期を伝えなければならない」
相馬は、旧藩・笠間藩へお預けとなりますが、脱走して彰義隊に参加。
上野寛永寺の戦いで彰義隊が負けると、相馬は、同じく脱走していた野村とともに旧幕臣とともに奥州を目指しました。
土方とともに
相馬らは、陸軍隊・春日左衛門の指揮下に入り、磐城方面で転戦します。
陸軍隊での相馬は、器量のある人物として一目置かれていたようです。
新選組では、平隊士だった相馬ですが、数々の経験を経て変わったのかもしれません。
やがて旧幕府軍がとどまっていた仙台へ到着、土方歳三と再会しました。
この時相馬たちは、土方に近藤の最期の様子を報告したはずです。
近藤を敵地へやってしまったことを激しく後悔していた土方。
最期まで凛々しく武士らしかった近藤の姿は、土方の悔恨を少しでも和らげたのでしょうか。
蝦夷へ
土方が率いる新選組に合流したかった相馬と野村ですが、陸軍隊でそれなりの地位にあった2人が抜けることは難しく、彼らはそのまま陸軍隊にとどまることになります。
明治元年(1868年)10月、新選組・陸軍隊など旧幕府軍は、蝦夷地(北海道)に上陸しました。
相馬は、陸軍隊幹部としての役割を十分果たしたうえで、改めて土方の指揮下に入ることを希望します。
相馬は再び新選組隊士となりました。
松前・箱館を抑えると、新選組は箱館市中の取り締まりにあたります。
相馬は、箱館新選組隊長となります。
かつて京で新選組が行っていた市中見回りの仕事を相馬が指揮することになったのです。
相馬とともに新選組に復帰した野村は、松前浄攻略の際、陸軍隊と先陣争いをしたことで、降格させられていました
宮古湾海戦
かつて江戸幕府がアメリカに製造を依頼し、完成した甲鉄艦の受取相手である幕府が瓦解したため、宙ぶらりんになっていました。
それが新政府軍の手に渡ってしまったのです。
「甲鉄艦を取り戻す!」
旧幕府軍は、甲鉄艦を奪取する作戦を立てました。
現在宮古湾に停泊している新政府軍の甲鉄艦に船を横付けして、斬りこみ、船ごと奪おうと計画したのです。
明治2年(1869年)3月25日明け方、旧幕府軍は途中の暴風により後れを取った2隻(幡龍・高雄)を残し、回天艦が静かに宮古湾へ侵入しました。
土方のもとには、相馬・野村以下精鋭が控えていた。
回天艦が甲鉄艦に近づく。
本来なら、甲鉄艦に横付けする予定だったが、回天艦は船首から突っ込むような形になった。その上、回天艦から2メートル以上の高さを飛び降りなくてはならない。
「これでは一斉に斬りこめない」
一瞬ためらった土方だが、「野村、参る!」血気盛んな野村が、甲鉄艦に飛び乗った。
続いて相馬が。
それをきっかけに、斬りこみ隊が次々と甲鉄艦へ移る。
甲板では、壮絶な斬り合いになっている。だが、計画のわずかなずれが勝敗を分けた。
始めのパニックから立ち直った甲鉄艦の乗組員が、ガトリング砲を操縦する。
1分間に150発もの弾を撃つ機関砲だ。
「皆殺しになる」
「撤退だ!退けェ!」
土方が叫んだが、甲板上にいる隊士は身動きが取れなかった。
野村は、相馬の楯になり、彼を回天へ抱え上げた。
「野村!」
近藤捕縛以来、ともに動いていた野村は、再び敵の真っただ中へ飛び込んでいった。
甲鉄艦の奪取計画は失敗しました。
この海戦で、野村利三郎ほか30名以上が死亡、相馬以下10数名が負傷しました。
土方の死
明治2年5月。
箱館は新政府軍に囲まれてしまいました。
相馬は、弁天台場で指揮を取り、新選組・島田魁らとともに決死の戦いを続けています。
これが最後の戦いと誰もが覚悟をしていました。
5月11日、新政府軍の函館総攻撃開始。
弁天台場は、新政府軍の猛攻を受け、孤立、全滅の危機に瀕していました。
弁天台場を助けるため、五稜郭にいた土方は、ほかの幹部の敗退を押し切って出陣。
従うのは新選組隊士・額兵隊・伝習士官隊など50数名ばかりです。
しかし、弁天台場へ続く一本木関門まで来たとき、土方は腹部に銃撃を受け即死しました。
土方の戦死を知らないまま、相馬たちは必死で弁天台場を守っていたのです。
新選組最後の隊長
5月14日、相馬は五稜郭に立てこもった榎本武揚のもとへ向かいました。
戦の継続か降伏かを確認するためです。
榎本は、降伏を拒否、相馬もそれに従う旨を伝えます。
土方の戦死を相馬が知ったのは、この時と考えられます。
翌15日、再び弁天台場へ向かう相馬に、新選組隊長の就任を告げられました。
土方の後を継ぐ、これが何を意味するのか。
「俺が土方副長の代わりに、新選組の最後を飾る」
相馬は大きな覚悟をもってこれを受けました。
相馬に同道していた薩摩藩士・永山友右衛門が、弁天台場の戦いぶりをねぎらいましたが、それに対し相馬は、
「弁天台場には、別れの盃を交わす酒がない。出来れば酒を送ってほしい」
と言い、永山は死を覚悟した清々しい言葉に感銘を受けたそうです。
新政府軍から差し入れられた酒で、弁天台場では、別れの宴が行われました。
新選組隊長として、最後の戦に立ち向かう相馬でしたが、わずか3日後の18日、箱館五稜郭は新政府軍に降伏したのです。
これにより、新選組も終わりをつげます。
相馬が新選組隊長であったのは、わずか3日間だけでした。
相馬は、最後の隊長として新選組のすべてに責任を負う覚悟をしていたのです。
相馬の明治
相馬は、島田魁やほかの新選組隊士、榎本武揚らとともに東京へ送られます。
当時はまだ坂本龍馬暗殺が新選組の仕業だと考えられていたため、相馬には坂本龍馬暗殺と、伊東甲子太郎暗殺の容疑がかかりました。
伊豆での相馬
明治3年(1870年)10月、相馬は伊豆の新島へ流され、大工の棟梁・植村甚兵衛に預けられました。
彼はそこで寺子屋を開きます。
その後、相馬の身の回りの世話をしていた甚兵衛の次女・マツと結婚しました。
人望もあつく穏やかな相馬は、島では師と仰がれて慕われていたようです。
穏やかな日々はそう長く続きませんでした。
東京へ
明治5年(1872年)10月、相馬は赦免され、東京の蔵前に移り住みます。
明治政府の役人として勤務し、各地へ派遣されて順調に昇進していましたが、明治3年の2月に突然免官されて、東京に戻ってきました。
免官された理由はわかっていませんが、やはり元新選組という過去が尾を引いていたのかもしれません。
相馬の最期
東京へ戻ってしばらくたったある日、妻のマツが外出から帰ってくると、相馬は割腹自殺をしていました。
マツには、他言無用と厳命したのみで、割腹した理由は全く遺していません。
新選組最後の隊長として、すべての責任を自分の死で終わらせようとしたのか、それとも戦の影が彼を責め苛んだ末の死なのか。
彼の死の理由は、相馬にしかわからないのです。
相馬は、新島から離れるときに詠んだ歌で、新島の石碑に刻まれています。
「さながらに そみし我が身はわかるとも 硯(すずり)の海の深き心ぞ」
(新島の)皆さんとこのように親しくなった私ですが、たとえ別れても硯の海で結ばれた深い心は(いつまでもあなたたちを忘れません)
硯の海とは、硯の墨汁をためておくところを指します。つまり、筆を硯に付けて学問をした=学問の仲間くらいの意味だと考えられます。
この歌を
(硯の海が暗く深く底が見えないように自分の思いはだれもわからない)
という意味と考える説もあるのですが、石碑の説明文では別れを惜しむ歌と説明されています。
もし新島にずっと住んでいれば、相馬とマツはいつまでも穏やかに仲良く暮らせていたのでしょう。
そう思うと、相馬の最期を余計に悲しく、切なく感じてしまいます。
相馬主計が登場する作品
新選組では、あまり目立っていない存在だったためか、相馬主計を主人公とした作品は、あまりありませんでした。
最後は、魅力的な相馬が描かれたおすすめ本を紹介します。
新選組最後の勇士たち 山本音也
新選組最後の隊長・相馬主計、安富才助、沢忠輔が登場する小説です。自分の信念がすべて覆され、それでも生きてゆく3人。それぞれの生き方、考え方が交差しながら話が進みます。
相馬主計の割腹が、残された2人にはどう映るのか、生き残った者の悲しみが胸に迫って、最後は号泣します。
歳三 往きてまた 秋山香乃
王政復古の大号令が発令された慶応3年12月、鳥羽伏見の戦い前夜から始まる物語です。主人公は土方歳三ですが、後半から登場してくる相馬と野村の友情や土方を慕う姿がとても切なくて、美しい。
私はこの本を読んで、相馬と野村に興味を持ったんです。名前は知っていましたが、それほど注目していなかったんですが、がぜん気になってきて、今まで読んできた新選組関連の本を見直したことを覚えています。
北走新選組 菅野文
相馬主計・野村利三郎・土方歳三を主人公とした全3章のコミックです。史実に基づきながら、相馬と野村の友情や土方との関係、相馬が伊豆へ流された後、切腹するまでの心情などが描かれています。
新選組が彼らにとってどれほど大きな存在だったのか、真の武士として生き、死のうとした彼らの姿は、とても美しいです。
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