岡田以蔵:人斬りと言われた彼の素顔とは?最期に残した言葉とは?

PVアクセスランキング にほんブログ村
幕末~

@このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています@

幕末の動乱期、尊王攘夷を唱える過激な浪士たちの中に、「人斬り以蔵」と呼ばれた男がいました。

大河ドラマ『龍馬伝』では、佐藤健さんが演じ、話題になった岡田以蔵です

すさまじい剣の使い手の彼は、師匠とも慕う男の言うままに、暗殺を続け、最期は無残に斬首されました。

彼は、なぜ人を斬り続け、なぜ悲惨な最期を迎えることになったのでしょうか。

今回は、岡田以蔵の生涯を振り返りながら、彼の哀しい生き方を決めてしまった理由を探ってみたいと思います。

スポンサーリンク

岡田以蔵の生い立ち

岡田以蔵のイメージを決定づけたともいえる司馬遼太郎さんの『人斬り以蔵』

その中の彼は、土佐藩でも特に身分の低い貧困層出身として、無教養な人物として描かれています。

でも本当の彼は、一般的な郷士の家に生まれて、それにふさわしい教育を受けていたことがわかっています。

天保9年(1838年)2月14日

以蔵は、土佐国の郷士・岡田義平の長男として生まれました

(弟・岡田啓吉は、同じく勤皇党に加わり、以蔵の死後も活躍しています)

父・義平は、縁組みの世話(仲人のようなこと)を良くしていて、近所では「七軒町の出雲の神様」と呼ばれていたそうです。

人斬り以蔵の父というイメージには程遠く、人の幸せを喜ぶ、人の好い乞う人物だったと考えられます。

幼いころの以蔵は、優しい父母に囲まれた幸せな日々を暮らしていたことでしょう

武市半平太との出会い

以蔵の父も母も、ある程度の学問を収めていたことから、以蔵も郷士の身分にふさわしい教育を受けていたようです。

ですが、以蔵に学問の才はなく、言葉巧みに使いこなすという技はありませんでした。

その代わり、身体が丈夫で運動神経は良かったと言われています。

武芸をするにふさわしい猛々しい性格もあったことから、父は以蔵を、剣士として名高かった武市半平太と小野派一刀流・麻田勘七に委ねました。

特に人格に優れ、見識も高い武市には、以蔵の精神面の教育も期待していたようです。

以蔵が武市の弟子になった年は、はっきりわかっていませんが、おそらく以蔵が12,3歳の頃だと考えられます。

以蔵は、天性の才能と、優れた師により、剣の腕がぐんぐんと上達していきました。

スポンサーリンク

以蔵の武者修行

安政3年(1856年)9月

以蔵は、武市半平太の供として、江戸へ出ます。

江戸において、以蔵は、桃井春蔵の道場・士学館で鏡心明智流の剣を学びました

以蔵は熱心に修行をしていたようで、翌年には目録を受け、揚々と土佐へ帰ってきます。

刀

帰国してからも、以蔵の剣術修行は続いていました。

生来の剣才に加えて、自信とたくましさは、以蔵をどんどん強くしていきます。

武市半平太の道場では、武市に代わり稽古をつけることも増えていました。

武市半平太の邸宅・道場の跡 出展:Wikipedia

中国・九州へ武者修行

万延元年(1860年)8月

以蔵は、同門の久松喜代馬・島村外内らとともに、武市の供として、中国・九州へ行きました。

武市は、諸国の事情探索をするためでしたが、以蔵らはそのようなことには関わらず、ひたすら剣術の修業をしていました

武市は、諸国探索が終わると、土佐へ帰り、再び江戸へ向かう予定でした。

しかし、以蔵は武市と別れ、九州の岡藩に滞在し、剣術の修業をしています。

これは、以蔵の実家が彼の旅費を出すのに苦労しているだろうから、このまま自分と土佐へ帰ると、もう土佐から出ることができないと思った武市の、以蔵への配慮でした。

武市は、岡藩のある藩士に、以蔵の岡藩での滞在と修行、その後の江戸行きまでの世話を頼んでいたのです。

岡藩 岡城跡

武市にとって以蔵は、頭の回りは良くなくて手のかかる弟子ではあるが、その分、余計に気になる、愛すべき弟子だったのではないでしょうか。

武市は、以蔵のことを「あの阿呆(あほう)」と呼ぶことがよくあったそうですが、このころはまだ愛情のある「あほう」だったのです。

師の愛情に応えるべく、以蔵は剣術修行に励みました。

もしかしたら、以蔵はこのころが一番楽しかったのではないでしょうか。

尊敬する師とともに、諸国をめぐりながら、大好きな剣の修業ができる。

剣の腕は、自分が思うようにどんどん上達する。

学問ではあまり目立たない自分だけど、剣の世界では堂々と勝負ができる。

剣士・岡田以蔵が最も純粋に輝いた時期だったように思います。

スポンサーリンク

土佐勤皇党結成

文久元年(1861年)5月

岡藩を出た以蔵は、江戸へ着きました。

江戸・桃井道場には、竹刀をふるう以蔵の姿が再び見られるようになっていました。

同年8月

武市半平太は、土佐勤皇党を結成します。

全国で湧き上がっていた尊王攘夷運動を勧めるためであり、以蔵も加盟しました。

尊王攘夷
天皇を敬い、異人を追い払うという思想 
当時の日本人は多かれ少なかれこの思想を持っていたようです

剣以外に興味のない以蔵は、ただ師の意向に従っただけと思われますが、とりあえず以蔵は攘夷志士となったのです。

以蔵の人生がここから大きく変わってゆきます。

武市と以蔵

土佐勤皇党の党首として、武市は多くの志士の指揮をするようになります。

複雑な密談も増えてくると、以蔵は次第に武市から距離を置かれることが増えていきました。

土佐勤皇党結成から1ヶ月ほどたったころ、武市は土佐の同志を募り、尊王攘夷運動を実現するために、仲間を連れて土佐へ帰りました。

江戸には、以蔵1人が残されてしまったのです。

以蔵の修業期間が、文久2年正月までだったことも理由でしたが、以蔵には取り残された思いがあったことでしょう。

修業が終わると、以蔵は、土佐まで初めての一人旅をしますが、途中で病に倒れてしまいました。

土佐で、攘夷運動を進める武市でしたが、出来の悪い弟子・あほうな弟子だからこそ気にかかっていたようです。

予定の日になっても帰ってこない以蔵を心配する武市の手紙が残っています。

東海道筋にて病気になったらしい。とても心配だ

吉田東洋暗殺

以蔵がやっと病から復活し、土佐への帰路を急いでいたころ、土佐では武市が大きな壁にぶつかっていました。

藩をあげて、尊王を進めたい武市でしたが、藩主・山内容堂と、彼の信頼する部下・吉田東洋は、公武合体路線を進めており、尊王重視へ傾くことが難しかったのです。

公武合体

朝廷と幕府が手をつなぎ、揺れ動く世情を安定させ、権威を取り戻そうという考え方

このままでは、土佐が尊王攘夷の先駆けになれない…危機感を持った武市は、吉田東洋の暗殺を指示します。

文久2年(1862年)4月8日

武市の命を受けた土佐勤皇党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助は、城から帰る途中の吉田東洋を暗殺しました。

吉田東洋

以蔵、京へ上る

目の上のたんこぶを斬り捨て、ようやく土佐藩の尊王路線が実現実を帯びてきたころ、以蔵は土佐へ帰ってきました。

同年6月

参勤交代の衛士として、以蔵は、初めて京へ上ることになりました。

その途中、大坂で、以蔵は初めて人を殺したのです。

天誅の名人・以蔵

後年、以蔵は「人斬り以蔵」と呼ばれるようになりましたが、当時の尊王攘夷派からは、「天誅の名人」として讃えられていました。

数々の暗殺をした以蔵は、名人と言われることに喜びを感じながらも、人殺しの罪の重さも心のどこかで感じていたのではないでしょうか。

井上佐一郎の暗殺

井上佐一郎は、参勤交代にも同行していた土佐藩の足軽です。

吉田東洋に可愛がられていたことから、東洋暗殺の犯人を執拗に探していたこともあり、勤皇党の標的となりました。

土佐勤皇党の切れ者・平井収二郎は、以蔵の他6人を集め、暗殺計画を指揮しました。

文久2年8月2日。

まずは井上佐一郎を泥酔させ、その帰り道、以蔵が手ぬぐいで井上の首を絞めた

必死にもがく井上を他の同志が押さえ込み、とどめを刺した

死体は、川に投げ込まれ、以蔵らは陣屋へ帰っていった

以蔵は、とうとう人を殺したのです。

ただの人殺しのはずが、思想に基づいた罰、天に代わって行われる罰・天誅と呼ばれ、文久2年ごろから京の町で度々行われていました。

土佐藩参勤交代の行列が、京に入った8月、土佐勤皇党による天誅は本格的に始まってしまいました。

その中心にいたのが、岡田以蔵だったのです。

彼が関わった天誅は、わずか半年足らずの間に5~9件もあるとされています。

ほかにも以蔵が加わったのではないかとされる事件が多数あるのではないかとも考えられます。

本間精一郎 暗殺

文久2年閏8月20日

越後国出身の勤皇の志士・本間精一郎は、幕府や公卿にもその名が知られる大物でしたが、大言壮語の態度が、同志たちに疎まれていました。

そんな中、土佐藩主・山内容堂と青蓮院宮との間で勅使をめぐる争いがあり、本間が青蓮院宮についたことから、土佐勤皇党の標的となりました。

本間は、三条小橋付近で斬殺されました。

実行犯は、以蔵の他、平井収二郎・島村衛吉らの他、薩摩の人斬りと言われた田中新兵衛とされています。

出展:Wikipedia

宇郷重国玄蕃守 暗殺

宇郷重国は、前関白九条尚忠の家臣でした。

安政の大獄で、志士弾圧を行い、和宮降嫁を推進していたため、志士たちから強い怨みを持たれていました。

同年閏8月22日

自宅を襲撃した以蔵らによって、子息ともども斬殺され、宇郷の首は四条松原の河原で、槍に刺されて晒されました。

実行犯とされるのは、以蔵・岡本次郎・村田忠三郎らとされています。

猿の文吉 暗殺

猿の文吉(ましらのぶんきち)は、安政の大獄の時、島田左近(薩摩藩・田中新兵衛らにより暗殺)の手先として動き、多くの志士の捕縛のきっかけを作った目明しでした。

文吉は、あまりに強い怨みを持たれていたことと、武士ではなかったことから、刀を使うことさえ穢れると考え、絞殺されました。

死体は、素っ裸にされて晒されました。

文吉は、不正に得た金で高利貸しをしたり、御所に忍び込んで女官に乱暴を働いたなどの罪状もあったたため、町衆の中には死体に石を投げる者もいたそうです。

実行したのは、以蔵・清岡治之助・阿部多司馬の3人。

文吉を暗殺すると決まったときは、実行隊への希望者が多く、抽選で決まったそうです。

京都町奉行与力 暗殺

9月23日

近江の石部宿で、京都町奉行所与力と同心が殺害されました。

渡辺金三郎・上田助之丞・大河原重蔵・森孫六の4人です。

いずれも、大老・井伊直弼の懐刀だった長野主膳の手先として、多くの志士を死に追いやった人物でした。

事件当日の夜、30人余りの志士が、石部宿を襲い、彼ら4名が斬殺されました。

石部宿を再現した石部宿場の里
出展:Wikipedia

首謀者である武市の日記には、刺客の中に以蔵の名前は書かれていませんが、以蔵も何らかの形で関与していたと考えられています。

平野屋重三郎・煎餅屋半兵衛 生き晒し

重三郎は、京の相国寺門前で口入屋を、半兵衛も鞍馬口で口入屋のような仕事をしていました。

彼らは、勅使(朝廷の使い)が江戸へ下るときの人足を調達していたのですが、わいろを取ったり、賃金の上前をはねたりして、暴利をむさぼっていました。

朝廷の威信失墜につながると考えた志士たちは、彼らに天誅を加えることにします。

(この事件には、武市の指令はなかったようです)

10月9日

それぞれの自宅を襲い、2人を殺害しようとしましたが、家族の必死に助命嘆願により、また町人であることから、殺すことはせずに2日間の生き晒しにしました。

以蔵は、「天誅」の名のもと、人殺しを続けることに、罪悪感を持っていなかったのでしょうか。

師匠である武市に褒めてもらうことが一番の喜びだっただろう以蔵には、おそらく何の罪悪感も感じていなかったかもしれません。

以蔵の脱落

文久2年10月28日~12月7日まで、以蔵は、勅使の護衛をする1人として江戸に滞在しています。

副勅使の姉小路公知の護衛を務めていた以蔵は、鼻高々だったことでしょう。

しかし、京へ戻った翌月・文久3年正月、以蔵は、出奔したのです。

以蔵はなぜ行方をくらましたのか

以蔵にとって、唯一頼りにしていた武市半平太は、尊王攘夷の嵐の中、多忙を極めていました。

江戸から京に戻った武市は、直ちに土佐へ戻っています。

出来の悪い弟子は気になるが、それよりも攘夷運動を進めることが重要。

武市は、相変わらず粗暴で物事を深く考えない以蔵に愛想をつかし始めていました。

頼る者もなく、京へ置き去りにされた以蔵は、少しずつ転落の道を歩み始めます

高杉晋作のもとへ

文久3年2月

以蔵は、江戸にいた高杉晋作のもとに居候していました。

過激な攘夷行動を実行していた高杉晋作は、まだ攘夷志士としての気概を持っていた以蔵にとって、あこがれの人物だったのかもしれません。

高杉晋作

高杉としては、いずれは役に立つかもと思って、以蔵を受け入れていたのではないでしょうか。

しかし、過激な思想を持つ高杉は、長州藩からも警戒されていたために、3月になると長州へ呼び戻されます。

さすがに以蔵を共に連れて帰ることもできず、以蔵は再び放浪することになりました。

以蔵と勝海舟

以蔵は、再び京へ戻ると、今度は勝海舟の護衛を行うようになりました。

これは、勝海舟と交流があった高杉からの伝手だとか、以蔵と知り合いだった坂本龍馬が、以蔵の行く先を考えて、勝にゆだねたとも言われています。

とにかく以蔵は、土佐勤皇党にとっては、敵とも入れる幕府側の勝海舟を護衛することになったのです。

勝海舟は、以蔵との逸話を残しています。

ある夜、勝海舟と以蔵が、寺町通りを歩いていたところ、3人の刺客に襲われました

以蔵は一瞬にして1人を斬り捨て、一喝。

すると後の2人は逃げ去っていきました。

後日勝海舟が以蔵に忠告をしています。

「君は、人を殺すなんてことをたしなんではいけないよ。先日のような振る舞いはやめたまえ」

すると、以蔵は

「先生、しかしあのとき私がいなかったら、先生の首はとうに飛んでしまっていますよ」

「これには一言もなかったよ」

『氷川清話』

もし以蔵がこのまま勝海舟のもとに残っていれば、彼の人生は、全く変わったものになっていたかもしれません。

でも、以蔵は勝のもとを離れてしまいました。

その理由はわかっていません。

もしかしたら、以蔵自身も自分が何をすればいいのか、わからなくなっていたのではないでしょうか。

師と仰ぐ武市半平太と会うこともできず、剣の道しか知らない以蔵は、1人で悩んでいたのかもしれません。

以蔵の最期

文久3年(1863年)8月18日

京で会津・薩摩両藩と公武合体派の公卿たちによるクーデターが起こりました。

世に言う「八月十八日の政変」です。

これにより、公武合体派が息を吹き返し、長州藩をはじめとする過激な攘夷派が、京から一掃されました。

武市半平太 捕縛

土佐においても、公武合体派の山内容堂は勢いを取り戻し、土佐勤皇党は瓦解の危機を迎えます。

文久3年9月21日

武市半平太は、捕縛されました。

もう武市に、以蔵の事を考える余裕はなくなっていました。

以蔵 捕縛される

以蔵がいた京では、政変以後の世情不安のためか、強盗や追いはぎが増えていました。

京都町奉行は、取り締まりを強化します。

その網にかかったのが、以蔵でした。

頼る者もなく、食べるものにも困っていたであろう以蔵は、鉄蔵という偽名を使って商家へ押し入り、因縁をつけて押し借りをしたのです。

押し借りとは、攘夷志士などが、資金集めのために時に行っていた、ゆすり・たかりのようなものです。

おそらく以蔵としては、志士としての押し借りなら許されるとでも思っていたのでしょう。

しかし、以蔵は京都町奉行に逮捕されました。

以蔵が捕まったという情報は、土佐藩にも知れ渡ります。

藩の目付(警察・検察のようなもの)は、これを、土佐勤皇党をつぶす絶好のチャンスと考えました。

土佐藩は、武市半平太を捕縛したものの、彼らの起こした暗殺事件や天誅の決定的な証拠はなく、断罪するには至っていませんでした。

しかし、剣の才はあれども、あまり学がなく、志士としての矜持(プライド)もないであろう以蔵なら、情報が漏れやすいのではないか。

土佐藩は、以蔵の引き渡しを要求します。

以蔵は、無宿・鉄蔵として洛外追放という罰を与えられたのです。

無宿とは、戸籍から除外された人を言います。

以蔵は、藩に無断で出奔したために無宿人となっていたのです。

洛外追放となった以蔵を待っていたのは、土佐藩の目付たちでした。

元治元年(1864年)5月のことです。

獄中の以蔵

翌月、以蔵は土佐の高知へ護送されてきました

高知城

牢に入れられる以蔵は、大声で自慢話をしていたそうです。

「俺は、長州藩へ行ったことがあるぞ!」

「吉村虎太郎も知っているぞ。あいつとは…」

吉村虎太郎とは、土佐勤皇党の1人で、攘夷の先駆けとなった「天誅組の変」を起こした首謀者です。

過激な攘夷志士として活動し、逆賊として追討されています。

奈良県東吉野村 天誅組終焉の地 出展:Wikipedia

そんな人物とのかかわりを自分から白状するなど、土佐勤皇党の1人として絶対にあってはならないことです。

でも、もともと思想的には全く無学な以蔵には、そんなことはわかりません。

以蔵の大声は、別の牢にいた武市にも聞こえていたようでした。

武市の中の出来の悪い、でも可愛い「あほう」は、もうどこにもいませんでした。

「余計なことを言う前に、早く死んでくれ」

武市は心からそう願っていました。

以蔵、自白する

武市の恐れていた通り、以蔵は、厳しい尋問・拷問により、土佐勤皇党が起こした数々の事件を自白していきました。

本間精一郎の暗殺、大坂の事件…。

武市に指示されたことや、以蔵とともに暗殺に関わった者の名前が次々と明らかになり、土佐勤皇党の同志たちが、捕縛されていきました。

武市は、これ以上同志が捕まるのを防ぐため、以蔵を毒殺することを考えます。

実際、武市の実弟・衛吉は、厳しい拷問に耐え切れずに、自ら毒薬を差し入れるように求め、服毒自殺をしています。

武市は、以蔵の両親に以蔵の殺害への同意を求めたが、それは得られず、かといって、以蔵自身が毒を差し入れる要求などはしませんでした。

幸か不幸か、頑丈な体の持ち主である以蔵は、拷問に苦しみながらも、病気にもなりません。

以蔵の自白により、同志たちはどんどん捕まっていました。

以蔵はなぜ自白してしまったのか

土佐勤皇党の同志が、拷問されながらも口を割らなかったのに対し、以蔵はなぜ簡単に自白してしまったのでしょうか。

「以蔵は女にも耐えられるような拷問に泣きわめき、自白した」

とも言われていますが、本当でしょうか。

この時代、罪人の拷問は、基本的には民衆にのみ行われていたそうです。

武士に対しての訊問に、拷問はなかったとされています。

(幕末に限れば、その基本は無視されていたようにも思いますが)

身分の区別が厳しかった土佐では、上士である武市は、いわゆる拷問と呼ばれるような身体を痛めつけられるような訊問は受けていなかったと考えられています。

上士とは、格段の身分差がある下士でも、庶民に身分を落としたうえで、拷問にかけたそうです。

ましてや、庶民でもない、無宿者の以蔵は、どれほど過酷な拷問を受けたことでしょう。

土佐勤皇党の罪を裏付けできる唯一の材料とも考えられていた以蔵は、集中的に拷問を受けていたのです。

これを「女でも耐えられる」とは言えないと思います。

おそらく、以蔵によって多くの同志が捕まったことへの、以蔵への怒りがそのような言葉になったのだと、私は想像します。

以蔵が自白を続けた理由のもう一つは、以蔵の口下手ではないでしょうか。

物事を論ずることなど苦手な以蔵が、巧みな訊問の裏を読んだり、うまくかわすことなどは難しかったでしょう。

外堀を埋めるように詰問されていくうちに、気づいたら自白していたこともあったと思います。

死を覚悟した以蔵は、同志に迷惑をかけてしまったことを自らの血で詫びたいと言ったそうです。

自覚しながらも、うまく言い逃れのできない自分を、以蔵は恥じていたのです。

以蔵、斬首される

以蔵の訊問が始まって、約10か月。

判決が言い渡される日が来ました。

以蔵は、牢屋の番人に武市への言付けを頼みました。

「武市先生によろしゅう言うてくれ」

これを聞いた武市は、以蔵の厚顔無恥ぶりを苦々しく思うだけでした。

慶応元年(1865年)閏5月11日

岡田以蔵、斬首。

享年27歳。

斬首となった同志の中で、以蔵だけが獄門、3日間晒し首にされました

以蔵 辞世の句

以蔵は、斬首される前に、辞世の句を詠んだとされています。

「君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ 澄み渡るへき」

「君」は、天皇か、武市半平太を指すと考えられます。

*帝にささげた心は水泡となってしまったが、そのあとには澄み渡った世ができるだろう

あるいは

*武市先生に尽くした心は、(先生に見限られて)水泡に帰してしまった。そのあとは、澄み切った(あきらめの)心が残るばかり

このような意味ではないかと思われます。

ただ、この句が本当に以蔵の詠んだものなのかは、わかりません。

この句を見ていると、『龍馬伝』の中で、斬首される瞬間にふっと笑った以蔵(佐藤健さん)が浮かんでしまいます。

できることなら、最後の最期は、澄んだ心で逝ってほしいと思いました。

その後の以蔵

明治になると、明治維新に貢献しながら殉職した志士たちが贈位されました。

しかし、以蔵はその中に含まれませんでした。

土佐勤皇党関係者が、高知の招魂社へ同志を合祀する際も、以蔵は除かれていました。

同志たちの、以蔵への怒りは、これほど大きかったのです。

昭和58年(1983年)、高知県の護国神社が以蔵を合祀しました。

以蔵の死、明治維新から110年余りも経っていました。

高知県護国神社

岡田以蔵が登場する作品

岡田以蔵が登場する作品は、主人公・わき役を含め、数多くあります。

最後は、いつものように私のおすすめの小説やドラマなどを紹介しておきますね。

今回も、お読みいただき、ありがとうございました。

人斬り以蔵   司馬遼太郎

教養がなく野蛮で、同志からも差別されるような身分でありながら、殺人剣の才を持った以蔵。

岡田以蔵のイメージがこのように定着した作品です。

私も、初めて岡田以蔵に出会ったのは、この小説でした。

史実とは違うことを知ったのは、つい最近。

それにしても、司馬遼太郎さんの世界は、すごいです。


正伝 岡田以蔵   松岡司

史実の中の岡田以蔵を、わかりやすく描いています。

歴史人物としての岡田以蔵を知りたい方には、まず読んでいただきたいおすすめの本です。

私もこの記事を書く時の参考にさせていただきました。

『龍馬伝』で以蔵が注目されたときには、この本がすごく売れたそうですよ。



真説 岡田以蔵 幕末暗殺史に名を刻んだ「人斬り」の実像   菊池明

こちらも史実に基づいて書かれた岡田以蔵の伝記のような本です。

どちらも、岡田以蔵という人物をフラットな視点で描いていますので、まずは読みやすい方を選んでみてください。


以蔵は死なず   桑原譲太郎

土佐の下級層であえぎながらも、底知れぬ剣才の持ち主・岡田以蔵。

這い上がろうとする以蔵の才能を見抜いた武市半平太との出会いにより、以蔵の人生は変わってゆきます。

『人斬り以蔵』をほうふつとさせる以蔵と彼を利用する武市。

坂本龍馬の人間性に魅かれながらも、武市に従う以蔵。

人間味あふれる以蔵が描かれた小説です。

これを読んだら、以蔵がもっと好きになってしまうかも。

さむらいせんせい   黒江S介

幕末、土佐藩の牢獄から武市半平太が現代にタイムスリップしてくるところから始まるコミック。

映画化、ドラマ化もされた面白い作品です。

武市、坂本龍馬に続き、4巻では岡田以蔵も現代へタイムスリップしてきます。

史実の以蔵につらくなった時には、こんな本もおすすめですよ。

大河ドラマ『龍馬伝』

岡田以蔵が、がぜん注目されたのが、このドラマです。

佐藤健さんが岡田以蔵を演じると知ったときは、正直少し違和感がありました。

でも、以蔵の登場シーンから、そんな違和感は飛んでしまいました。

たたずまいがどこか哀しげで、でも時に狂気に満ちたような目をしたり。

以蔵の最期に見せた笑顔は、今も忘れられません。

このドラマで岡田以蔵に興味を持った方がぐんと増えたというのも納得です。


コメント

タイトルとURLをコピーしました