武家政権を始めて作った源頼朝。
彼の人生は、まさに波乱万丈でした。
2度にわたる戦による運命の浮き沈み、そこから立ち上がり、結婚、戦の勝利、武家の棟梁へと駆け上がりながら、突然の謎の死。
学校では必ず学ぶほどの有名人でありながら、源頼朝がどんな人物だったのかを知っている人は少ないと思います。
今回は、源頼朝の生涯と逸話を通して、鎌倉幕府を創設した彼の姿に迫ってみたいと思います。
源氏の御曹司・頼朝
源頼朝が生まれたのは、久安3年(1147年)4月です。
清和源氏の流れをくむ河内源氏・源義朝の三男として誕生、幼名は「鬼武者・鬼武丸」と称しました。
母・由良御前は、藤原南家出身の熱田大宮司・藤原季範の娘です。
頼朝は三男ながら、母が藤原家の血を引く高貴な身分だったことから、家督を継ぐ存在と見られていました。
生まれながらの「源氏の御曹司」だったのです。
保元の乱
保元元年(1156年)
父・源義朝は、保元の乱で平清盛とともに後白河上皇に従い、勝利します。
2年後の保元3年(1158年)2月に頼朝は、上西門院蔵人に任じられ、6月には二条天皇の蔵人にも任命されます。
蔵人(くろうど)
天皇の秘書的な役割をする役人。
まさに順風満帆の人生がこれから始まろうとしているところでした。
しかし、そんな未来は来ませんでした。
平治の乱
平治元年(1159年)12月
源義朝は、後白河上皇の近臣・藤原信頼とともに、後白河上皇と二条天皇を捕らえ、軟禁します。
それを知った平清盛は、一計を案じ、後白河上皇と二条天皇を無事脱出させます。
その後、二条天皇から藤原信頼・源義朝追討の宣旨を受けました。
源義朝は、朝敵になったのです。
義朝と頼朝たち兄弟は、かろうじて平安京から落ち延びますが、義朝は途中で忙殺され、兄たちも亡くなりました。
次兄・朝長は逃げる途中に負傷し、それが元で亡くなっている
頼朝もつかまり、清盛の待つ京都へ送らました。
それを説明するのは、とっても複雑でややこしい朝廷内の派閥争いがあります。
なので超簡単に言いますね。
後白河上皇は、この信西をより重用していたのです。
それが気に入らない信頼は、信西を追い落とすために、保元の乱で活躍したのに、清盛よりも位が低いままで不満があった源義朝を誘ってクーデターを起こそうとしたのです。
でもそのために自分の主人である後白河上皇を軟禁するのは、どうかと思いますが、信頼には一様何らかの考えがあったのでしょう。義朝は、多分信頼にいいように利用されただけだと思いますが…。
頼朝、伊豆へ流される
京へ戻された頼朝は、この時わずか13歳。
とはいえ、源氏の後継である頼朝にあるのは、処刑という処分だけのはずでした。
ところが、平清盛の義母・池禅尼らが頼朝の命乞いをしたのです。
元は、朝廷内の権力争いで、源氏はそれに巻き込まれた形でもあったため、後白河上皇や、上西門院の意向が働いたという説もありますが、とりあえず頼朝の命は助かりました。
頼朝は、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流されることになりました。
イケメン頼朝
同時代の人々によると、頼朝は
年齢より大人びている
顔が大きく容貌は美しい
と評されています。
身長も165㎝ほどあったらしく、当時の平均よりかなり背が高かったのです。
そんな頼朝の13歳ごろを想像してください。
なんと可憐で愁いを帯びた美少年だったことでしょう(妄想入ってます!)
大河ドラマ『平清盛』では、少年期の頼朝を中川大志さんが、青年期を岡田将生さんが演じていらっしゃいます。
2月9日(1199年)は源頼朝の命日です。#平清盛 放送前に復習!【5分で分かる鎌倉幕府の創始者・源頼朝の生涯】
劇中で頼朝を演じる岡田将生さんと中川大志さん(少年期)。似てますね…https://t.co/DvmCixd0fu pic.twitter.com/gQKonsPXkH— 歴人マガジン (@rekijin) February 9, 2017
こんな美少年が、悄然として目の前に座らされていたら…。
池禅尼でなくとも、助命を願ったかもしれませんね。
青年になってますますイケメンになる頼朝は、この後様々な女性といろいろ…あります。
流人・頼朝
伊豆での謹慎中、頼朝は亡き父や源氏一門の供養をしながら、比較的自由に暮らしていました。
乳母の甥・三好康信から京の情報を得たり、武芸の鍛錬のために大規模な狩猟を行ったりもしています。
これは、伊豆を含めた関東全体が、源氏に対し、好意的で指示していたという背景があったからです。
頼朝の行動もそれほど制限されていたわけではなさそうです。
彼を監視する役だった伊東佑親の三女・八重姫と北条時政の長女・政子の二股をかけていた時期もあるらしい…というのだから、ちょっと自由すぎ?
ただ、八重姫との間に出来た男子は、平家の怒りを恐れて佑親が密かに殺し、二人の仲は裂かれたと言われています。
源氏を支持しながらも、表向きは、平家に服従している形をとっていたのでしょう。
八重姫の悲劇を知っていたのかどうか、頼朝のもう1人の恋人・北条政子は、1枚上手でした。
押しまくる!北条政子
一応流人の身である頼朝と、監視役の娘である政子は、いわば「禁断の恋」という関係です(ここまでは八重姫もおんなじ)。
禁じられるとかえって燃え上がるのが、恋というもの…と誰かが言っていたように、2人は密会を繰り返し、愛を深めていきます。
(ここからは想像も入りますが)八重姫の事があり、頼朝は政子に対しても一時距離を置こうとしていたかもしれません。
しかし、政子の恋心は燃え上がる一方です。
この時代の女性には珍しく、政子の方から頼朝に会いに行くこともあったようです。
政子の父・北条時政も、これを知っていい顔をしません。
八重姫の二の舞になるようなことがあっては大変です。
そんな親心を知ってか知らずか、やがて政子のお腹には、頼朝の子(大姫)が授かったのです。
「や、やばい」
時政、どうする!
時勢は、政子の味方をしました。
京では、平家のあまりの横暴ぶりに、後白河法皇をはじめとする朝廷内部で不満がたまりつつあったのです。
「もしかしたら、源氏の御曹司を味方にしておくのもいいかも」
と考えた(かもしれない)時政は、しぶしぶではありましたが、頼朝と政子の結婚を認めました。
かくて政子は、見事源頼朝を射止め、その後の鎌倉幕府を支え続ける偉大な女性となるのです。
政子は、とっても嫉妬深い女性としても知られています。
イケメン頼朝は、政子と結婚してからも、あちこちの女性のもとへ通っていました。
これは子孫を多く残すために、当時の武家なら当たり前のことだったのですが、政子はそれが許せませんでした。
流人暮らしの頃から愛人だったらしい”亀の前”という女性がいます。
亀の前は、とてもたおやかで優しい女性だったらしく、頼朝は政子と結婚してからも、彼女を鎌倉へ呼び寄せて通うほどでした。
でもそれが政子の耳に入ってしまったのです。
政子は、亀の前が住む邸を打ちこわさせ、亀の前は命からがら逃げたと言います。
以後、頼朝はより一層注意して、女性たちのもとへ通うようになりました(懲りない!)
頼朝、立つ!
治承4年(1180年)
後白河法皇の皇子・以仁王が平家追討を命じる令旨を全国の源氏に発しました。
以仁王自身は、源頼政らととともにその後の宇治の戦いで敗戦し、亡くなりますが、源氏は動き始めます。
頼朝は、しばらくは静観していました。
が、平家が源氏追討を企てたことを知り、挙兵を決めます。
この時頼朝は34歳、伊豆へ流されて20年という歳月が経っていました。
伊豆で過ごした20年の間に、頼朝は東国の武士との信頼関係を築いていました。
治承4年8月
皆をまとめ、かつて父とともに暮らした鎌倉を目指します。
しかし、最初の大きな戦い「石橋山の戦い」(現・神奈川県小田原市)は、大負けしました。
かろうじて逃げ延びた頼朝は、船で安房国(現・千葉県南部)へ落ち延びます。
頼朝は、安房国で勢力を持つ武士たちと合流、勢力を強めながら、再び挙兵、同年10月、鎌倉へ入りました。
頼朝の動きは、平家にも伝わります。
平清盛は、息子・維盛を総大将とした源氏討伐軍を関東に向かわせました。
平家討伐
治承4年(1180年)10月
駿河国富士川において、源頼朝は、途中で従えた武田信義とともに平維盛との結成んに挑みました(富士川の戦い)
しかし、この戦いは、大きな戦になる前に平家が撤退し、終わっています。
頼朝は戦わずして勝ったのです。
翌日、頼朝のもとに、1人の若武者が面会を求めてやってきました。
それは、頼朝の挙兵を聞き、奥州藤原から駆け付けた弟・九郎義経でした。
頼朝は、義経の手を取って再会を喜んだと言います。
この後義経は、平家討伐の立役者となるのです。
この戦いの後、頼朝は一旦鎌倉へ戻り、関東の武士たちを平定します。
平家と戦う前に、まずは関東頼朝勢力の足固めをしたのです。
平清盛死去
源頼朝の挙兵・勝利の報は、全国の武士たちのもとにも届き、彼らは続々と平家への反旗を翻していきました。
養和元年(1181年)2月
そんな中、平清盛が病死します。
平家は平重衡を総大将とし、再度源氏討伐に向かい、墨俣川の戦い(現・長良川)で源氏を破ります。
しかし、なぜか平家はそのまま京へ戻りました。
これは、平家内部でも何かしらの意見の違いがあったとか、近年の凶作による兵糧の不足が原因だとか言われています。
源義仲の挙兵
信濃国木曽谷にいた頼朝の従兄弟・源義仲(木曾義仲)も挙兵していました。
義仲は、父を頼朝の兄・義平に殺され、自分自身も殺されそうになったという因縁があり、元々頼朝とは仲が良くありませんでした。
その上、墨俣川の戦いで負けた源行家を匿ったため、両者の仲は一層こじれます。
しかし、今は平家を倒すことが先決と考え、和解しました。
その条件は、頼朝の長女・大姫の婿として、義仲の嫡男・義高を鎌倉へ送ることでした(人質ですね)
そんな大人の事情を知らない幼い2人は、お互いに想い合い、仲が良かったそうです。
頼朝が関東の武士の反乱などで、思うように平家との戦いに望めない中、義仲は、次々と平家との戦いに勝利、都から平家を追放しました。
大軍を率いて京に入った義仲は、後白河法皇から平家追討の命を受けます。
しかし、寄せ集めの軍であった義仲の兵は、全く統制が取れていませんでした。
都のあちこちで傍若無人のふるまいをする義仲軍に、反感を持った朝廷や後白河法皇は、頼朝に上洛を促しました。
頼朝は、自分の勢力が安定していないことを理由に、再三の上洛要請を拒否します。
朝廷は、頼朝の権力を認めることで、上京を促し、最終的には、当初は反乱軍とみなしていた鎌倉の政権を公的に認めました。
義仲追討
頼朝は、弟・範頼と義経を義仲追討に向かわせます。
義仲は、後白河法皇を脅すようにして、征夷大将軍に任命させます。
範頼・義経軍は、数万騎を率い、京を目指し、粟津の戦い(現・滋賀県大津市晴嵐)において、義仲を討ち取りました。
人質となっていた義高は、頼朝によって殺されるところを大姫の機転でかろうじて逃げましたが、結局つかまり、討たれてしまいます。
大姫はこのショックから立ち直れず、数年後亡くなってしまいました。
平家の滅亡
範頼・義経は、今度は平家追討の軍として、京を発ちます。
有名な戦いとして
鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし
屋島の戦い(現・香川県高松市)
那須与一の扇の的の射抜き
壇ノ浦の戦い(現・山口県下関市)
源平最後の戦い
などがありますが、詳しくはまた今度。
壇ノ浦の戦いに敗れた平家は滅亡、幼い安徳天皇は入水し、崩御されました。
文治元年(1185年)4月
平家追討を成し遂げた頼朝に、朝廷は従二位を叙します。
20数年かかった平家への頼朝の復讐は、ようやく終わったのです。
鎌倉幕府成立
頼朝が次にするべきことは、権力の安定です。
まずは、目に余る勝手な行為をしていた弟・義経の処分でした。
義経追放
義経は、平家追討の軍を率いていたころから、独断が過ぎていました。
頼朝は、自分の許しなく、朝廷から官を任じられてはいけないと命令していたのにもかかわらず、義経やその家来たちは、朝廷からの任官を受けていたのです。
平宗盛父子を連れて、鎌倉へ凱旋しようとした義経を、頼朝は腰越(現・神奈川県鎌倉腰越)で足止めさせ、宗盛父子だけを鎌倉へ連れてこさせました。
義経は、頼朝に許しを請うために書状(腰越状)を送りましたが、鎌倉へ入ることは許されませんでした。
頼朝は、宗盛父子と一の谷の戦いで捕らえていた平重衡を義経に伴わせて、京へ帰らせました。
頼朝の冷徹な態度に義経は強い怨みを持ち「東国で頼朝に恨みのある武士は、俺のもとへ来い」と言ったのです。
それを聞いた頼朝は、義経の所領を没収。
義経は、後白河法皇を脅すようにして、頼朝追討の宣旨を下させました。
頼朝は、すぐに京へ使いを送り、今度は義経追討の宣旨を出させました。
そして、頼朝の圧倒的な勢力の前に、義経はかろうじて都から落ち延びたのです。
文治の勅許
義経は、京からはいなくなりましたが、依然としてどこかで匿われていました。
未だ朝廷に義経をかばう者がいるとにらんでいた頼朝は、朝廷に義経の捜索・追捕のためとして「守護・地頭」の設置を認めさせます。
これにより、頼朝は全国の荘園を掌握することができました。
また、後白河法皇が、義経に頼朝追討の院宣を出したことを追求し、朝廷に対しこれらの要求を突きつけ、受け入れさせました。
(義経をかばった)院近臣を辞めさせること
議奏公卿(頼朝に近い公卿たち)による朝廷政治の運営
九条兼実に内覧させる(天皇への書類などを前もってチェックさせる)こと
後白河法皇の独裁院政は終わりを告げることになるのです。
この時点で、源頼朝の鎌倉政権は、実質的に始まったとも言われています。
最近の歴史の教科書では、1185年を鎌倉幕府成立の年としているのは、このためです。
奥州藤原・義経征伐
京の近辺にも居所が無くなっていた義経は、少年期を過ごした奥州藤原氏のもとへ逃げていました。
頼朝は、義経を匿っている奥州藤原氏に、義経を差し出すように要求します。
初めはこれを拒否していた藤原氏ですが、頼朝の勢力に押され、ついに義経追討の宣旨を受け入れました。
文治5年(1189年)閏4月
藤原泰衡は、衣川館(現・岩手県西磐井郡平泉町)に住んでいた義経を襲い、自害に追いやりました。
同年7月になると、頼朝は、奥州へ兵を出します。
約2ヶ月の奥州合戦の末、奥州藤原氏は滅亡しました。
征夷大将軍・源頼朝
後白河法皇は、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝を京へ呼び、権代納言・右近衛大将を任じました。
しかし、頼朝はすぐに辞官し、鎌倉へ帰ってしまいました。
すでに実質的な権力者だった頼朝にとって、形式的な名誉職など何の魅力もなかったのでしょう。
建久3年(1192年)3月
深い因縁があった後白河法皇が崩御しました。
同年7月
頼朝は、後白河法皇の後を継いだ後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられました。
これ以後、江戸時代の末まで、征夷大将軍についたものが武家政権の最高責任者になるという慣例が続くのです。
私は、源頼朝が征夷大将軍についた1192年が鎌倉幕府成立の年だと習いました。
1185年か1192年か、どちらが正しいとかは多分決められないと思いますが、個人的には、名実ともに頼朝が政権を握った1192年を鎌倉幕府成立の年とする方がしっくりくるように思います。
頼朝の最期
やっと政権を取った頼朝ですが、心の休まる暇はありません。
頂点に立つまでには、従兄弟や弟、叔父と争ってきた頼朝にとって、身内と言えど絶対の信頼を持つことができなかったのです。
弟・範頼への疑い
建久4年(1193年)5月
頼朝が、駿河国富士山ろくのにおいて巻き狩りをした時のことです。
御家人の工藤佑経が、曽我兄弟の仇討に遭い、討たれました。
それが、頼朝が討たれたという誤報として鎌倉へ伝わってしまいます。
頼朝の妻・政子が嘆いていると、範頼がこう言って慰めたのです。
「源氏には、範頼がおります。御心配には及びませんよ」
後でこれを聞いた頼朝は、これを謀反の疑いありと考えました。
う~ん、どうでしょう。
範頼自身は、全くそんな気持ちがなく、ただ政子を慰めるために行ったのかもしれないのに…。
でも、裏切りを数多く見てきた頼朝には、まず疑ってかかることしかできなかったのかもしれません。
範頼は、謀反を否定する手紙も書きましたが、受け入れてもらえず、伊豆へ配流、修善寺に幽閉されました。
頼朝の子供たち
頼朝には、正妻・政子との間に
- 長女・大姫
- 長男・頼家(鎌倉幕府2代将軍)
- 次女・三幡
- 次男・実朝(鎌倉幕府3代将軍)
の他、
妾・大進局との間に貞暁(僧侶になっている)という男子がいます。
大姫は、源義仲の子・義高と婚約、義高が亡くなった後は、心を病み、のちの縁談はすべて断り、ずっと闘病生活をしていました。
しかし、頼朝の意向により、後鳥羽天皇への入内の話が進んでいました。
大姫自身の意には沿わない入内でしたが、母・政子も彼女の今後を考えて、後鳥羽天皇のもとへ行かせるつもりでした。
ところが、大姫の病は一層悪くなり、入内が実現する前に、わずか20歳で亡くなってしまいました。
頼朝はあきらめきれず、今度は次女の三幡を入内させようと計画しました。
三幡は、女御の称を与えられ、入内の日を待つのみとなっていたところでしたが…。
頼朝 謎の死
建久9年(1198年)12月27日
頼朝は、相模川で催された橋供養の帰りに、体調を崩します。
帰路で落馬したことが原因と言われていますが、真実はわかっていません。
建久10年(1199年)1月11日
いつまでも体調が良くならない頼朝は、何かを感じていたのか、何かを願ってなのか、この日出家しました。
それから2日後の13日
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は死去しました。
享年53歳
後鳥羽天皇へ入内する予定だった娘の三幡は、頼朝の死から5か月半後、父のあとを追うように亡くなりました。
その後の鎌倉幕府
夫・娘たちの死が続き、悲嘆にくれた北条政子でしたが、頼朝の後を継ぎ、鎌倉幕府を支え続けます。
しかし、頼家は、将軍の器がなく失脚、期待された実朝は暗殺され、頼朝直系の将軍は、わずか3代で終わってしまいました。
政子は、弟・北条義時を執権として、鎌倉幕府を支え、朝廷との勢力争いにも勝利しました。
鎌倉幕府は、足利尊氏と新田義貞により倒されるまで、約130年間続くことになります。
源頼朝が登場する作品
源頼朝が登場する作品は多いのですが、主人公として描かれている作品は、歴史に名を残している人物にしては、少ないのです。
これは、悲劇的な最期があまりにも印象深い義経に対し、彼を死へ追いやった悪者として扱われていることが多いせいではないかと、思っています。
そんな偏見などなく、頼朝の姿を描いた作品を紹介します。
源頼朝 吉川英治
父・義朝の敗戦から始まる頼朝の生涯を描いています。
全体に、頼朝が中心に描かれてはいますが、義経にフォーカスした場面も多く、鎌倉幕府草創期の源氏が良くわかる本ではないでしょうか。
吉川英治さんの別の作品『新平家物語』の中でも頼朝がよく描かれています。
源頼朝 山岡荘八
こちらの本も、平治の乱から始まっています。
平治の乱後の義朝の無念さがせまってくるようで、その後の頼朝の冷徹な態度にどんな背景があったのかがうかがい知れます。
テンポよく読めて、わかりやすい文章なので、平安末期から鎌倉時代初期の流れが良くわかります。
『草燃える』
1979年に放送された、北条政子を主人公として鎌倉幕府草創期を描いた大河ドラマです。
北条政子を岩下志麻さん、源頼朝を石坂浩二さんが演じられています。
昔の大河ドラマは、とっても重厚でいかにも時代劇といった感じでした。
今は超ベテラン俳優となっておられる方の初々しい姿が見られるのも楽しいです。
『義経』
こちらは、2005年に放映された大河ドラマです。
源義経を滝沢秀明さん(子供時代は神木隆之介さん)、頼朝を中井貴一さん(子供時代を池松壮亮さん)が演じていらっしゃいました。
中井貴一さんの頼朝は、兄として政治家としてそのはざまに立たされて葛藤する頼朝の苦悩がひしひしと伝わってくる人物でした。
終わりに
今回は、源頼朝の生涯についてお話ししました。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、大泉洋さんが演じる源頼朝。
脚本は、三谷幸喜さんなので、おそらく私たちが知る頼朝とは一味違った人物になるでしょう。
いろんな人が入り乱れて、結構わかりにくい鎌倉時代初期ですが、映像で見るとすんなり頭に入ってくるものです。
私も若干苦手な鎌倉時代を2022年は克服したいと思います!
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