元治元年(1864)6月5日。
京の町は祇園祭宵山で賑わっていました。
祭りを楽しむ人々の中を、ある一団が粛々と進んでいきます。
揃いのだんだら羽織を着た隊列、それが新選組。
世間をあっと言わせる大事件を起こす直前の彼らでした。
新選組を一躍有名にした池田屋事件、多くのドラマや映画、小説でも描かれた運命の一日。
すでにご存じの方も多い事件ですが、今回は改めて池田屋事件の詳細と隊士たちの動きについて追って見たいと思います。
池田屋事件の全貌
池田屋事件をひとことで説明するなら、過激派の尊攘浪士が会議をしていた池田屋へ新選組が乗り込み、取り締まった事件といえます。
多くの尊攘浪士が斬殺され、捕縛されたことで明治維新が1年遅れた、逆に生き残った尊攘浪士が奮起したことで明治維新が1年早まったとも言われている大きな事件です。
とはいえ、学校ではほとんど習うことはありません。
日本史の教科書にも欄外に小さく書かれている程度で、歴史の大きな流れにはほとんど影響を与えていたなかったと考えられているようです。
新選組ファンの私は、欄外の池田屋事件記述にマーカーを引いていたけどね
なぜ新選組は池田屋へ乗り込むことになったのか、なぜ尊攘浪士を捕まえる必要があったのでしょうか。
ここからは、池田屋事件に至るまでを時間を追って解説しましょう。
文久3年(1863)から元治元年(1864)
池田屋事件勃発の前年(1863年)に起こった八月十八日の政変では、会津藩と薩摩藩が長州系の勢力を京都から一掃しています。
しかししばらくすると長州勢力は、再び少しずつ京都に潜入していました。
当然幕府側も長州の動きをつかみ、会津藩・新選組を使って不審な浪人たちを取り締まっています。
そして翌元治元年(1864)4月22日の夜のこと。
松原通り木屋町で火事があり、その際新選組は1人の不審人物を捕縛します。
彼を厳しく調べたところ、長州藩邸の門番であること、そして長州人が京都へ250人以上潜入していることを自白したのです。
多くの不逞浪士が、地下活動をしていたことに、新選組、そして会津藩、幕府は驚きます。
会津藩はより一層の巡察強化、不逞浪士取り締まりを新選組に命じました。
元治元年6月5日朝 古高俊太郎捕縛
新選組には優秀な監察方(スパイ)がいました。
山崎烝や島田魁です。
彼らは、会津藩の監察方と共に日々浪士たちの動きを監視し、探索していました。
そんな中で、ある不審な人物が浮かび上がってきます。
四条小橋で薪炭商(古道具屋とも)を営む枡谷喜右衛門(ますやきえもん)です。
慎重な探索の結果、枡谷の正体は近江(現滋賀県)出身の古高俊太郎という人物だということ、彼が商人という仮面の裏で、密かに過激派攘夷志士たちをサポートしていることがわかってきました。
監察方の働きにより、大きな情報を得た新選組が、古高の家を急襲したのが6月5日早朝です。
屋内を捜索すると、攘夷志士たちが交わしていたであろう多くの文書が見つかっただけでなく、鉄砲や火薬などの武器も多数押収されました。
1864年の今日、池田屋事件が発生。新選組が古高俊太郎の家に踏み込んだのがこの事件のきっかけです。彼は桝屋喜右衛門と名乗り、古道具屋を営んでいました。が、実は長州の連中のスパイ活動、諜報活動等を担っていました。彼を拷問にかけることで、新選組は長州の工作活動のことを知ります。そして… pic.twitter.com/El5DpjusqD
— 幕末ジャーナリスト(新選組検定事務副長) (@kuni_s47) June 4, 2023
その中でも特に新選組を驚かせたのは、「烈風の日に…」という複数の文書です。
「風の強い日に何をするというのか、何かとても危険なことを企んでいるのではないか」
そうにらんだ新選組は、古高を拷問にかけました。
しかし、本名を述べた以外全く話さない古高。
いくら責めても自白しません。
副長土方歳三は、不敵な笑いを見せると、古高を逆さづりにするように命じた。
頭に血が上り、次第にもうろうとしてくる古高。
土方は静かに言う。
「どうだ、そろそろ気が遠くなってきたころじゃねぇか。だが気を失わせるわけにはいかねぇ」
土方は古高の足の甲へ5寸釘を打つ。
釘の先は足の裏から出てくる。
土方は、そこへろうそくを立て、火をつけた。
あまりの激痛に叫び声をあげる古高、気を失うことさえができない。
残酷な拷問を冷ややかな表情で行う土方に、新選組隊士たちまでが怯えた。
半刻あまり耐えた古高であったが、とうとうすべてを自白したが、その内容はさすがの土方も想像を絶するものであった。 (これはあくまでも私の想像です!)
古高が話した内容とは以下のようなものでした。
祇園祭で京の町が騒がしいのに乗じて、御所を焼き払い、孝明天皇を長州へ連れ帰り、火災に驚いて参内した松平容保を討ち、そのほかの公武合体派の公家たちも殺してしまうという驚くべき計画が、密かに進行していたのです。
新選組では、すぐさま会津藩へ連絡し、浪士たちの捕縛に向かうこととなりました。
会津藩の動向
実はこの時期、新選組以外でも不逞浪士の探索が行われており、その中で彼らが何かしらの過激な計画を立てているということは、つかんでいたらしいのです。
そして、祇園祭が終わった後に、市中の一斉捜索が計画されていたそうです。
しかし新選組が古高を捕縛し、具体的な計画がわかったことで、捜索の予定が早められました。
ところが、新選組からの連絡以後、会津藩やその他協力要請を受けた藩の動きはあまりにも遅く、結果的に新選組が手柄を独り占めにする形になるのですが、それはまた後ほど。
市中捜索へ
不逞浪士の過激な計画を知った新選組は、会津藩へ報告するとともに今後の動きについて考えます。
古高が捕縛されたことはすでに浪士たちにも知られているはず、とすれば古高奪還と今後の計画について会合をするのではないか…。
早ければ今夜にでも動くかもしれない。
会津藩と共に市中探索をするため、新選組は祇園祭りで賑わう八坂神社下の祇園会所へ集合することに。
ところがこの時期、新選組内では、夏バテや腹痛などで床に臥せっている隊士が少なくありませんでした。
出動できる隊士は40人にも満たないわずかな人数です。
隊士を直接指揮する立場の副長土方はさぞ頭が痛かったことでしょう。
結局以下のように隊士が分けられました。
- 近藤が指揮する1隊 10名
- 土方が指揮する2隊 24名(うち1隊は井上源三郎が指揮し、別動隊としても動く)
- もう一人の副長山南敬助が屯所を守る留守隊
近藤率いる隊は数は少ないながら、沖田総司・永倉新八・藤堂平助という精鋭メンバーが含まれています。
祇園会所に集まった新選組は、約束の時刻を過ぎても会津藩から連絡がこないことにじれていました。
「仕方ない、我々だけで探索を始めよう」
近藤の覚悟に土方も同意。
午後8時過ぎ、新選組は二手に分かれて探索を開始。
近藤隊が鴨川西岸を、土方隊が鴨川東岸を探索しながら、四条通から三条通に向けて北行しました。
そして…。
池田屋へ
午後10時ごろ、三条小橋の池田屋の前に近藤以下沖田総司、永倉新八、藤堂平助らの姿が。
「御用改めである」
池田屋主人惣兵衛がうろたえる様子を見て、近藤は確信しました。
(奴らはここにいる)
永倉、藤堂は1階を、そのほかの隊士には玄関と裏口を固めさせ、近藤は沖田と共に階段を駆け上がります。
ふすまを開くとそこにいたのは20数人の浪士たち。
新選組の襲撃に彼らもパニックになっていました。
命がけの戦闘が1時間近く続き、沖田が昏倒(熱中症によるものか?)、永倉は手のひらに負傷、藤堂も額を斬られてしまいます。
守りを固めていた奥沢英助は即死、安藤早太郎・新田革左衛門は重傷(のちに死亡)、無傷なのは近藤勇ただ一人。
そこに到着したのが土方隊です。
圧倒的不利な状況から脱した新選組は、次々と浪士を捕縛しました。
ちょうどこのころやっと現れた会津藩と桑名藩でしたが、すでに事件はほぼ片付いていました。
事件の手柄はほぼすべて新選組のものとなり、その名は京だけでなく日本中に轟きます。
永倉新八が見た池田屋事件
実際に池田屋へ突入した隊士の1人、永倉新八はのちに新選組や自身の生涯についての覚書を残しています。
その中に永倉が見た池田屋事件当時の様子も描かれていますので、一部紹介しておきます。
以下現代文に意訳しました。
…玄関らしきところで池田屋の主人を呼び、「今から宿改めを行う」と告げると、主人は非常に驚き、奥の2階へ走っていった。後を追うと、長州の志士20名ほどが抜刀している。
近藤勇が「御用改めでござる。手向かいすれば容赦なく斬り捨てる!」と大声で一喝すると、志士たちは恐れおののいて後ろへ下がった。(中略)藤堂は垣根の近くで長州志士に斬られ、目に血が入って戦えない様子だったので、永倉が助太刀した。(中略)永倉は手のひらを少し切られ、刀も刃こぼれしたので、長州志士の刀を分捕った。(中略)また、(店の)表の方へ逃げた志士は、残らず隊士が斬り伏せた…。
『浪士文久報国記事』より
『浪士文久報国記事』は、明治9年(1876)ごろに永倉本人が記した手記で、当時の様子が淡々と、でも生々しく綴られています。
新選組の史料としても第一級のものですが、いちファンとしてもとても興味深く読める本です。
浪士側の死傷者
この事件での浪士側の被害は大変大きなものでした。
攘夷志士のリーダー的存在であった肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)は、重傷を負ったのちに切腹、同じくリーダー格であった長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)は一旦は池田屋を脱出し、長州藩邸までたどり着きましたが、門が開けられなかったために、池田屋へ戻る途中で斬殺されています。
ちなみに吉田稔麿は、子母澤寛氏が創作した池田屋階段落ちで有名です
その他、土佐の北添佶摩(自刃)、肥後の松田重助らが死亡し、多くの浪士が捕縛されました。
事件がすべて片付いたのは、6月5日を過ぎ、すでに夜が白み始めたころでした。
運が良すぎる?桂小五郎
実はこの日、池田屋にはあの桂小五郎(木戸孝允)も訪れていたのです。
彼は、午後8時ごろに池田屋へ行ったそうなのですが、早すぎてまだ誰も来ていなかったため、長州藩邸へ戻っていた(対馬藩邸に行っていたとも)ため、難を逃れたと言われています。
池田屋が襲撃され、長州藩士の吉田稔麿が命からがら長州藩邸へ加勢を頼みに来たとき、中にいた桂小五郎は長州藩を巻き込むわけにはいかないと、門を開けさせませんでした。
その結果吉田は命を落としていますので、桂は他の藩士に強く責められたことだと思います。
しかし、もし長州藩が加勢していたら、藩全体が幕府から責めを受けなければならなかったはずです。
桂としても、苦渋の決断だったのではないでしょうか。
山崎烝は池田屋にいたのか?
新選組監察の山崎烝といえば、池田屋事件で大活躍をした隊士として知られています。
しかし実際の池田屋事件では、山崎の姿がどこにもなかったのです。
と、その前に山崎烝って誰?池田屋にいたの?という方のために、山崎烝がどのように池田屋事件で活躍したとされているのかお話しておきましょう。
池田屋事件成功の立役者となった山崎烝
新選組監察方が浪士探索を進める中で、一つの宿が注目されます。
それが池田屋でした。
実家が針医者とも薬屋とも言われている山崎は、一旦大坂へ下り、ある薬問屋から紹介状をもらいます。
それを持ち、薬屋に化けた上で池田屋を訪れました。
京で薬の行商をするために、しばらく逗留するという触れ込みで、山崎は池田屋に潜入。
三条小橋に潜んでいた会津藩の監察方(ものもらいに化けていた)を通して、新選組に情報を伝えていました。
そして6月5日夜。
池田屋の2階に集まった浪士たちの会合では、山崎も料理を運ぶなど、池田屋の手伝いを行っていました。
山崎は、
「女中がお侍さんのお腰のもの(大刀)を蹴ってしもうたら、えらいことです。まとめてお預かりしときまひょか?」
と、浪士たちの大刀を隣の部屋の押し入れへ隠してしまいます。
山崎は前もって玄関のつっかえ棒を外しておくことも忘れません。
近藤が乗り込んでくると、山崎も共に浪士たちと戦い、池田屋事件の成功に大きく貢献しました。
というのが、ドラマや小説で描かれてきた池田屋事件における山崎の動きです。
私を含め多くの新選組ファンは、「池田屋事件と言えば山崎の活躍」と考えていたのですが、実はこれ、全くのフィクションだったのです!
山崎烝、本当は池田屋事件に出動していません!
ではなぜ山崎が池田屋に潜入していたとされたのか、それはおそらく子母澤寛氏が著された『新選組始末記』の影響だと考えられます。
現在では、『新選組始末記』は当時のことを知る人たちからの聞き書きに基づいた子母澤寛氏によるフィクションであると知られています。
しかし当初は、書かれている内容が史実だと誤解されていたようです。
その『新選組始末記』の中では、山崎が池田屋に潜入した様子が詳しく描かれているため、以後の新選組関連の本には、山崎の池田屋事件での活躍が頻繁に描かれることになったというのが真相です。
『新選組始末記』は、ところどころに壬生の屯所として使用されていた八木邸の子孫のお話や、そのほか子母澤氏が聞き書きされたお話も一部含まれているので、完全なフィクションというわけでもないというのが、くせものなのでしょう。
私自身も、これが新選組なんだと思いながら、ワクワクして読みました。
今読み返しても、やっぱりフィクションだと思えないお話もあり、さすが新選組研究の基本と言われてきただけのことはある一冊です。
興味のある方は是非ご一読を!
山崎烝はどこにいった?
池田屋事件当日に山崎がどこにいたのかは明らかになっていません。
ですが、6月5日朝の古高俊太郎捕縛時には、その場にいたようなのです。
古高の自宅からは、浪士が交わしていたらしい多くの文書が見つかっていますので、監察方としてはさまざまな可能性を考え、次の行動に移っていたのではないでしょうか。
結果的に池田屋において多くの浪士を捕縛することが出来ましたが、それはある意味運が良かっただけ。
浪士たちは別の場所、別の日時に会合をしていれば、全く違った歴史になっていたかもしれません。
山崎は、情報収集という自分たちに仕事に徹していたために池田屋へ行かなかったと考えられます。
新選組への報奨金
池田屋事件ののち、新選組は幕府から600両ほどの報奨金を与えられています。
新選組ではこれを次のように隊士たちに分配しました。
出動した隊士には一律に10両、そのほか別段金として
- 近藤勇 20両
- 土方歳三 13両
- 沖田総司・永倉新八・藤堂平助・谷万太郎・浅野藤太郎・武田観柳斎 10両
- 井上源三郎・原田左之助・斎藤一・島田魁・林信太朗・蟻通勘吾ら11名 7両
- 松原忠司・河合耆三郎・近藤周平ら12名 5両
- 死亡した3名 10両
ちなみに山崎烝の名前はこの中にありませんでした。
やはり山崎は池田屋へ出動していなかったのです。
池田屋事件その後
池田屋事件により、攘夷志士を先導していた重鎮がいなくなりました。
そのため志士たちは、一気にトーンダウン、次第に勢いがなくなった…なんてことは全くありませんでした。
過激攘夷派の中心的な存在であった長州藩は、池田屋事件の報告を受けると間もなく、不審な動きを始めます。
長州から軍勢を京に向けて進めてきたのです。
仲間を殺され、長州藩を追いやった会津藩や新選組、幕府への憎しみとともに、その波は京の北、南、そして御所に向けて進軍。
やがてこれが禁門の変(蛤御門の変)の勃発へとつながります。
禁門の変における御所洛中での激しい戦いにより、池田屋事件で新選組が炎から守った京の町の大半を焼け野原にしてしまいました。
終わりに
池田屋事件は、明治維新を1年遅らせたと言われていました。
しかし、その後の禁門の変を見ても分かるように、大きな憎しみを持った長州藩は決してそれを忘れることなく、ひたすら討幕の道を突き進んだように思います。
もちろん憎しみだけが長州藩やほかの攘夷志士の原動力ではありません。
しかし、幕府・会津藩・新選組憎しの心は、少なくとも討幕へのエネルギーにはなっていたと思います。
戊辰戦争による徹底的な会津藩叩きも、新政府軍の幕府・会津に対する私怨によるところがあったのではないかと思わざるを得ません。
怨みや憎しみは、いつの時代も悲しい争いを生み出します。
今も世界のどこかで続いている戦争もどこかで憎しみの連鎖を止めない限り、永遠に続くような気がします。
何の力もない私は、ただ憂うこと、そして知ること、それだけでも続けなければと思う今日この頃です。
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