彰子は、平安時代最も権力を持った藤原道長の長女として生まれました。
まさに生まれながらのお姫様だった彰子は、わずか11歳で一条天皇のもとに嫁ぎます。
この時代では珍しいほどの長寿だった彰子は、夫や子の死に直面しながらも藤原一門を統率しました。
今回は、自らの意思とは離れたところで運命が決まっていった彰子の生涯をたどってみます。
「蝶よ、花よ」と育てられたお姫様
彰子(しょうし・あきこ)が生まれたのは、永延2年(988)です。
母は左大臣・源雅信の娘倫子(ともこ・りんし)
父はすでに出世の道を歩み出していた道長です。
藤原家・源家両家にとって彰子の誕生は、天皇とのつながりをより強固なものにするためにも大変喜ばしいことで、盛大な誕生祝が行われたそうです。
しかし、彰子自身は内気でおとなしい女の子でした。
幼きお后
周囲の大いなる期待を受けながら、彰子はすくすくと美しく育ち、長保元年(999)2月9日には、裳着の儀式を無事に終えました。
裳着の儀とは女性の成人式のようなもので、
平安時代では12~16歳くらいで行われていました。
彰子が裳着を迎えたのは、数えで12歳、満年齢なら11歳という幼さでした。
にもかかわらず、その年の11月に彰子は一条天皇に入内したのです。
わずか12歳で一条天皇の妻となった彰子でしたが、『栄花物語』では幼すぎるお后について次のように記されています。
髪は背丈より長く、お顔立ちはとても美しく、まだ幼い少女でありながら、大変落ち着いた姫君でいらっしゃる
彰子より8歳も年上だった一条天皇も、妹か娘のような気持ちで彼女を迎えていたと伝わっています。
と言うのも、この時の一条天皇にはすでに藤原定子という愛すべき妻がいたからです。
後宮の彰子
一条天皇は穏やかで愛情深い方だったようで、また藤原家への配慮もあり、まだ幼い彰子に対しても何かと心を砕かれていました。
ですが、内気な彰子はそれにうまく応えることができないようでした。
夫婦とはいえ、男女の愛情などまだまだ早く、ままごと遊びのような夫婦だったのではないでしょうか。
2人の后
当時一条天皇には、藤原道長の娘・彰子と道長の兄道隆の娘・定子の2人の后がいました。
定子はすでに脩子(ながこ)内親王を産み、一条天皇の深い愛情を受けていましたが、彰子はまだまだ幼い少女です。
この時、妻として一条天皇が愛していたのは、定子だったと思います。
いわゆる道長と道隆の権力争いを反映するように、彰子と定子もライバル関係だったと考えられていますが、本人同士はそれほど意識していなかったのではないでしょうか。
のちに定子の遺児を彰子が大切に養育し、愛情を注いでいたということからも后の地位を争った仲だとは思えません。
彰子にとって定子は、一条天皇の愛情を取り合うライバルではなく、後宮で共に一条天皇を支える頼もしい姉のような存在だったのだと私は思います。
それは一条天皇の愛情深い性格も影響していたのでしょう。
定子の死
定子の父・道隆が亡くなると、いよいよ道長の権勢が強くなってきました。
それにあらがった定子の兄・伊周(これちか)と弟・隆家が訴追され、定子は衝撃のあまり出家します。
それでも一条天皇の定子への愛は変わらず、定子は第一皇子・敦康親王を授かりました。
未だ懐妊が望めない彰子に対し、定子は媄子(びし)内親王を懐妊。
しかし定子は、難産で崩御してしまいました。
長保2年12月のことでした。
一条天皇の后は彰子ただ1人となります
養母として
彰子はわずか13歳で、一条天皇の第一皇子・敦康親王の養母になりました。
自らの局・藤壺で親王を養育する彰子ですが、母と言えどまだ13歳ではあまりにも頼りない…。
実際に養育したのは、彰子の母・倫子だったようです。
まるで兄弟のような親子を見守る祖母。
彰子は一条天皇の穏やかな愛情に抱かれ、自分自身も幼い親王へ愛情を注いでいました。
しかし未だに懐妊の兆しがない彰子に焦る道長。
道長は彰子のために才能あふれる女官たちを集めました。
彰子の宮廷サロン
彰子が入内する以前、中宮定子は清少納言をはじめ知性あふれる女官を集めてサロンを開いていました。
女官たちは、定子の身の回りの世話や知的な話し相手、貴族たちとの交渉役などを担っています。
そのため、女官には豊富な知識や臨機応変に立ち回れる才が必要とされていました。
明るくて知性あふれる定子のサロンは、活気にあふれる素晴らしいものだったそうです。
道長は、彰子にもそのようなサロンを作ろうと考えました。
そして彰子のサロンに集められた女官の1人が、紫式部です。
彰子のサロンには、ほかに和泉式部や赤染衛門(あかぞめえもん)、伊勢大輔(いせのたいふ)などがいました。
道長は、知性あふれる彼女たちによるサロンで、知的な素晴らしい女性として育つ彰子を期待していたのでしょう。
母となった彰子
寛弘8年(1008)はじめ、彰子がとうとう懐妊します。
入内して9年目、彰子は21歳になっていました。
待ちに待ったこの知らせを、道長もさぞ喜んだことでしょう。
生まれたのは一条天皇にとって第二皇子となる敦成親王。
彰子は更に翌年、第三皇子・敦良親王を産みました。
これで藤原道長の権勢はいよいよ強まります。
彰子の反抗
それに対して窮地に陥ったのが、第一皇子の敦康親王。
敦康親王の母定子はすでになく、伯父にあたる伊周も寛弘7年(1010)に亡くなりました。
後ろ盾を持たない敦康親王と道長の孫・敦成親王では、戦う前から勝負が決まっています。
寛弘8年に一条天皇が病になると、これ幸いと道長は一条天皇に譲位を迫りました。
一条天皇は敦康親王の立太子を希望していましたが、道長側の圧力により、東宮となったのは敦成親王でした。
これに怒りを表したのが、彰子。
彰子は実子である敦成親王ではなく、養母として育ててきた敦康親王の立太子を望んでいたようなのです。
藤原行成の日記には、彰子に一言の相談もないまま一条天皇に譲位を促し、敦成親王を次期天皇と定めた道長を、彰子は「怨み奉った」と記されています。
彰子がどれだけ敦康親王に愛情を、そしてその母定子に対して敬愛の念を持っていたかがわかる出来事です。
一条天皇との別れ
寛弘8年(1011)一条天皇が崩御しました。
ずっとそばで看病していた彰子に、病床から一条天皇が贈った歌が残っています。
「秋風の露の宿りに君をおきて 塵をいでぬることぞ悲しき」
(秋風の露の宿りのようなはかない現世に、あなたを置いて逝ってしまうことが悲しい)
『栄花物語』
残された彰子の嘆きも大きく、
「逢ふことも 今はなきねの夢ならで いつかは君をまたは見るべき」
(今はもう逢うこともできず、泣きながら眠る夢の中で会えるばかり いつかあなたにまた会えるのでしょうか)
『栄花物語』
という悲しい歌を詠んでいます。
定子亡き後、その悲しみを分かち合った一条天皇と彰子は、深く愛し合う夫婦になっていたのです。
国母・彰子
長和5年(1016)敦成親王が即位し、後一条天皇となりました。
道長は摂政となりますが、翌年には出家しあとを嫡子・頼通に譲ります。
天皇の実母である彰子もまだ9歳の幼い天皇の後見として政務を助けました。
この時29歳の彰子は、公卿たちから賢后と呼ばれていたそうです。
内気で静かだった少女が、藤原一門を代表する1人として摂関政治を支える思慮深い人物になっていたのです。
彰子の晩年
万寿3年(1026)彰子は落飾し女院号を賜り、上東門院と称しました。
道長が建立した北条寺境内に東北院を建て、そこで晩年を過ごしたため、「東北院」とも呼ばれています。
ようやく落ち着いた日々を過ごす彰子でした。
皇子の死
長元9年(1036)静かに余生を過ごす彰子のもとに届いたのは、後一条天皇(敦成親王)崩御の知らせでした。
寛徳2年(1045)には、後朱雀天皇(敦良親王)が崩御します。
相次いで2人の子を亡くした彰子の悲しみは、いかばかりだったでしょうか。
彰子の悲嘆
彰子はその後も孫の後冷泉天皇(1068年崩御)後三条天皇(1072年崩御)を見届けることとなります。
彰子が87歳で亡くなったのは承保元年(1074)10月3日ですが、その8カ月前には弟の頼通が亡くなっています。
この時代には珍しいほどの長寿を全うした彰子でしたが、晩年は近しい人たちの死で淋しい日々も多かったことでしょう。
彰子は多くの和歌を詠んでいますが、肉親の死を悼んだ歌の多いのがとても悲しく感じます。
「ひと声も 君に告げなん時鳥(ほととぎす)この五月雨はやみにまどふと」
(一声だけでもこの声を我が君につげておくれ、ほととぎすよ。母はこの五月雨の夜にあなたを思う闇に惑っていると) 後一条天皇崩御の際に読んだ歌 『千載集』
彰子は荼毘に付された後、宇治木幡の宇治陵に埋葬されました。
藤原彰子が登場する作品
長寿を全うしながらも波乱に満ちた人生を生きた彰子。
藤原道長の娘であり、紫式部が仕えた中宮ということから、彰子は平安時代を描く多くの作品に登場しています。
今回は、読みやすい研究書・小説・コミックから1冊ずつ紹介します。
彰子がどのように描かれているのか、そして彰子の本当の姿に少しでも近づいてみたいと思っている方はぜひ読んでみてください。
藤原彰子(人物叢書) 服藤早苗
道長の長女として生まれ、幼くして一条天皇の后となった彰子が、国母として政務を後見し、藤原氏を統率していくまでの生涯を『御堂関白記』や『小右記』などの史料から浮かび上がらせています。
彰子の生涯がわかりやすく解説されていて、彼女がどのように生きていたのか、その姿に近づける一冊です。
月と日の后 冲方丁
父に命じられるがままに入内した彰子を優しく迎える一条天皇。その一条天皇にはすでに定子という愛する后がいた。父と夫に照らされる月でしかなかった彰子は、1人の幼子を抱きしめたその時から変わり始める。
紫式部が支えた国母・彰子の波乱の生涯を描いた一冊です。
神作家・紫式部のありえない日々 D ・キッサン
夫を失って以来その悲しみを癒やすべく創作活動に邁進していた紫式部。彼女の作品が話題となり、巷では神作家という評判が!そしてついに宮仕えの話が舞い込んでくる。仕事は中宮様の家庭教師!
現代用語があふれ、平安時代なのにとても近しく感じる楽しいコミックです。
紫式部や当時の文化・習慣も楽しみながら学べる、でもただ楽しむだけでもOK。
ハードルが超低くなっているので、歴史が苦手と言う方にも読んでもらいたいです!
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