新選組隊士として隊務に励みながら、妻子に仕送りを続け、悲惨な最期を遂げた吉村寛一郎。
これは『壬生義士伝』の主人公・吉村寛一郎の姿です。
あまりにも素晴らしい小説だったため、吉村という人はこの小説に出てくるような人だと思い込んでいました。
ところが実際に調べてみると、あまりの違いにちょっとびっくり!
ということで今日は、吉村寛一郎についてお話しします。
吉村寛一郎は実在していた?
しょっぱなから実在を疑うところから入りますが、新選組の名簿によると確かに吉村寛一郎という人はいたのです。
ところが吉村の出身であるという盛岡・南部藩の記録にはその名前がない!
実は吉村寛一郎という名前は、彼が新選組に入隊するときに付けた名前らしいのです。
剣術の才に恵まれた男
盛岡藩での彼の名前は、嘉村権太郎(よしむらごんたろう)。
天保10年(1839)に誕生し、父は嘉村弓司という盛岡藩の目付でした。
『盛岡名人忌辰録』によると、権太郎は新当流の高弟のひとりでした。
新当流とは、剣聖・塚原卜伝を流祖とする鹿島新当流のことで、歴史が古く大変実戦的な古武道です。
その流派の中でも高弟として名が残っているということは、権太郎の剣術の腕は相当のものだったと考えて間違いないでしょう。
新選組での剣の強さは、嘘ではなかったと言えます。
新選組入隊までの権太郎
権太郎は、文久2年(1862)に盛岡藩の重臣であった遠山礼蔵に従って、江戸へ出ています。
藩の軍役についていたのです。
江戸に出た権太郎は、元治元年(1864)ごろには玄武館に入門しました。
玄武館といえば、千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です。
幕末には、千葉定吉・山岡鉄舟・清河八郎・山南敬助・藤堂平助らが通っています。
また玄武館があったお玉が池には、佐久間象山ら文人の居宅も多くあったことから、文武修行の環境が整っていました。
若き権太郎も、多くの仲間と共に剣術修行するとともに、時勢を憂いて議論を戦わせていたのかもしれません。
権太郎、出奔!
慶応元年(1865)1月、権太郎は盛岡藩へ戻るように命令されますが、彼は従いませんでした。
藩の誰にも告げず出奔したのです。
玄武館での日々が権太郎の中にある何かに火をつけたのか、それとも江戸の空気に馴染みすぎて盛岡へ帰りたくなかったのでしょうか。
同年の4月、権太郎は「吉村寛一郎」という名前で新選組に入隊しました。
嘉村は、同じ音の吉村に、寛一郎は志を貫くという意味でつけたようです。
新選組での活躍ぶり
寛一郎は、当初平隊士として入隊しましたが、半年足らずで諸士調役兼監察に抜擢されています。
諸士調役兼監察とは、山崎烝や島田魁らと同じ役職で、いわゆるスパイのような活動を行っていました。
新選組内の重要事項や尊攘浪士の情報なども取り扱う役職で、近藤勇や土方歳三ら幹部からの信頼が篤くなければ抜擢されません。
わずか半年で就任した寛一郎という人物は、相当出来る人だったのかもしれません。
しばらくのちには、剣術指南役も兼任しますが、これも剣術に長けていた確実な証拠だと言えます。
近藤・土方の期待に応えるべく、寛一郎は隊務に励みました。
広島探索
慶応元年(1865)9月、幕府は第2次長州征伐を決定。
11月4日には、その先陣として、大目付・永井尚志が長州詰問使として西国へ向かいました。
新選組局長の近藤勇・伊東甲子太郎・武田観柳斎らとともに、寛一郎・山崎烝・尾形俊太郎・服部武雄ら監察方も随従します。
これは、長州藩やその周辺の藩の実情などを探るための先陣隊で、永井・近藤らが京へ戻った後も、寛一郎は山崎烝と共に広島に残り、情報収集を続けました。
慶応2年(1866)9月、長州征伐が始まってしばらくの間も、彼らはその地に留まり戦況を調査しています。
三条制札事件の後始末
同9月12日、土佐藩士が幕府が掲げた制札を引き抜こうとし、それを見張っていた新選組が阻止しようとしたことで激しい戦闘となります。(三条制札事件)
このあと、会津藩・新選組と土佐藩とで話し合いの場が持たれたのですが、その場に寛一郎が出席したという記録が残っているので、おそらくそのころには寛一郎と山崎は戻っていたと考えられます。
交渉に長けていた寛一郎
先ほどの三条制札事件の後始末もそうですが、寛一郎は隊内外での交渉ごとによく顔を出していたようです。
新選組が壬生から西本願寺に移り、その後不動堂村へ新しい屯所を立てるという時も、寛一郎は山崎と共に西本願寺に交渉して、屯所建設のお金を出させています。
また、伊東甲子太郎暗殺事件の際には、山崎ら監察と共に、近藤の妾宅での宴会の手配も行っていたようです。
ただ、寛一郎の剣術が披露されたような記録はあまり残っていません。
慶応3年(1867)12月7日に起こった天満屋事件でも、寛一郎は坂本龍馬暗殺の犯人だと疑われた紀州藩・三浦休太郎の護衛にあたっていますが、共に護衛をしていた永倉新八の記録には、襲撃してきた土佐藩士と彼が斬り合ったという記述が見られません。
想像ですが、これは寛一郎の温厚で真面目な性格がむやみに剣をふるわせなかったのかもしれません。
鳥羽伏見の戦い
慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いでは、寛一郎も新選組隊士として参戦していたと考えられます。
ただ寛一郎がどのように戦っていたのかはわかりません。
この戦い以後、寛一郎の消息はぱったりと途絶えてしまいました。
吉村寛一郎の最期
今残っている史料では、寛一郎の最期について様々な説が記されています。
西村兼文『壬生浪士始末記(新撰組始末記)』では?
西村兼文は、西本願寺の侍臣で、新選組に対してはあまり好意的ではない人でした。
彼が遺した『壬生浪士始末記』の中に、寛一郎の人となりと消息が記されています。
吉村寛一郎という隊士は、盛岡・南部藩脱藩浪士で、文武両道、書も上手い人で、局長の近藤勇に信頼されよく仕えていた。
鳥羽伏見の戦いにおいては、新選組とはぐれたまま大坂へ敗走したが、その時はすでに新選組隊士たちが江戸へ向かって船で出航した後だった。そこで当時網島にあった南部藩へ行くと、旧知の留守居役に面会し、これからは勤王のために働くから匿ってくれるように願った。
しかし、「一度は脱藩し、幕府に尽くした身でありながら、いまさら勤王のために働くとはもってのほか、ことここにおよんでは腹を切って士道を立てろ」と言われたため、吉村はその場で切腹して果てた。
『壬生義士伝』を読まれた方ならわかると思いますが、これはあの小説に出てくる寛一郎の最期にとてもよく似ています。
同じような最期を描いている本がほかにもあります。
子母澤寛『新選組物語』の寛一郎
新選組三部作の1つ『新選組物語』の「隊士絶命記」という章では、寛一郎がこのように描かれています。
寛一郎は、妻子5人を養うために寛一郎は大坂へ出てきた。その後新選組に入隊した。心がけもよく、剣もよく使えた。自らは暮らしを切り詰めて妻子に仕送りをしていた。
温厚な性格の上に、何をさせてもそつなくこなすので、近藤は寛一郎をいたく気に入って、諸士調役兼監察に取り立てた。慶応3年の春、新選組一同が旗本に取り立てられたと聞いたときは、あまりの嬉しさに涙を落としそうになっていたという。
鳥羽伏見の戦いの後、味方とはぐれた寛一郎は、網島の南部藩仮屋敷へ…。そこには昔から知っている大野次郎右衛門という留守居役へ、勤王のために奉公したいので匿って欲しいと願う。しかし大野に拒否され、部屋を借りて切腹した。介錯人の切腹で、翌朝になり大野が様子を見に行くと部屋中は血だらけ、さぞ苦しかったことだろうと想像できる。
寛一郎の側には小刀と二分金の入った財布があり、「この二つの品を私の家へお届けください」と書いてあったという。
『壬生浪士始末記』とほぼ同じ内容ですが、『新選組物語』ではこの話の前半は島田魁が明治になってから元新選組屯所の八木家の人に伝えたもので、後半は元南部藩の留守居役・大野から子孫が語り伝えられていたものと書かれています。
ところが、南部藩に大野という留守居役はいませんでした。
そうです。この話は、子母澤寛氏の創作だったのです
名作『壬生義士伝』へ
『壬生浪士始末記』『新選組物語』で描かれた吉村寛一郎のイメージが完成したのが浅田次郎氏が著された『壬生義士伝』です。
妻子を養うため、南部藩を脱藩し、新選組に入隊した吉村寛一郎。
周りから「守銭奴」と蔑まれながらも、必死で仕送りを続ける、そんな寛一郎を見守る近藤や土方と、なぜか空恐ろしさを感じる斎藤一がいます。
寛一郎と家族、その周囲の人々を優しく切なく描いた秀逸の作品です。
決して電車内で読了してはいけません。鼻水ダラダラの姿を他人に見せることになります
もちろん、映画・ドラマも良かった。
私は映画の中井貴一さん演ずる吉村寛一郎をおすすめします
映画壬生義士伝
中井貴一さん演じる吉村貫一郎が格好良すぎる。南部の武士というと戦国時代の南部家とか九戸党(南部一族)のイメージ。あとこのシーンではそうでもないけど、南部地方の訛りで演じるの凄い。 pic.twitter.com/5yaP3r406Q
— マサキ (@YMZnoMASAKI) June 1, 2020
終わりに
22,3歳で江戸へ出てきて剣術所業をし、そのまま出奔した寛一郎に、妻子があったとは思えません。
国元へ仕送りもしていないでしょう。
ただ彼の剣の腕と心映えの優しい人となりは、小説の通りだったように思います。
史実から垣間見える吉村寛一郎という人物のありようは、いま私たちがイメージする吉村寛一郎と重なる部分も多くあります。
少し眉を下げたぎこちない笑顔で「おもさげながんす」(申し訳ありません・ありがとうございます)という寛一郎。
仕送りはしていなくても、寛一郎はやはり魅力的な新選組隊士だったと思います。
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