戊辰戦争の最終決戦となった箱館戦争。
新選組副長・土方歳三は、新政府軍総攻撃の前に、1人の少年を箱館から江戸の日野へ向かわせます。
まだ若い少年隊士・市村鉄之助です。
それは、市村の命を救うため、そして新選組が生きた証を残すための行動でした。
しかし、この時土方が箱館から逃がした少年隊士は、市村だけではなかったのです。
箱館戦争から約150年後にわかった新しい事実
戊辰戦争の頃の土方歳三には、戦闘要員ではなく、世話係として10人ほどの少年隊士がいたそうです。
戦況が危うくなるにつれ、土方は、若い彼らの命を惜しんで、少しずつ逃がしていたといいます。
その中で最も有名な少年隊士が、市村鉄之助です。
市村が、土方から預かった写真や手紙、刀などを多摩にある土方の実家まで届けたおかげで、今私たちは土方の姿を見ることができています。
ただこの時、市村は1人で箱館から脱出したのではなかったらしいのです。
もう1人の少年隊士・渡辺市造
新選組の隊士録などによると、渡辺市造は、多摩牟礼村出身、慶応3年(1868)6月以降に入隊し、両長召抱人(局長・副長の小姓)になっています。
そして、同年12月には、許可を得て離隊したとあります。
しかし、渡辺が市村らとともに箱館へ渡航したという名簿もあったそうです。
土方の小姓のひとりとして、箱館へ渡った渡辺は、まだ幼さの残る16,7歳の少年でした。
すでに死を覚悟していた土方は、将来のある2人の少年を箱館から逃がしました。
ただ逃げろと言うだけでは、彼らは動かないかもしれない、そこで土方は彼らに命令します。
「俺の故郷へ届けて欲しいものがある」
土方の故郷・多摩へ。
おそらく土方は、多摩出身の渡辺と2人なら、迷うことなく多摩にたどり着けるだろうという思いがあったのではないでしょうか。
副長の命を受けた2人は、後ろ髪をひかれながらも船に乗り、江戸を目指しました。
市村の名前だけが伝わった理由
2人は、新政府軍の目を逃れながら、無事多摩まで来ることができました。
しかし、伝わっているのは、市村のことだけ。
渡辺は、無事多摩へ行ける状況となった時点で、市村と別れたのかもしれません。
渡辺の実家も多摩にあるのに、なぜ帰らなかったのでしょうか。
それは、多分家族や親族に迷惑をかけたくなかったからだと思います。
京では多くの攘夷派浪士を捕縛し、斬ってきた新選組です。
賊軍である旧幕府軍の中でも、新選組隊士は特に憎まれていました。
土方の実家でも、「一族郎党根絶やしにされる」と言う噂が立って、土方や近藤たちの手紙や、彼らとの関係がわかるような書類などを焼いたり、井戸に捨てたりしたそうです。
渡辺は、自分が帰ると、家族が殺されるかもしれないとまで思っていたかもしれません。
市村と別れた渡辺は、川越に向かい、米人足として一生を終えたそうです。
現在の渡辺家は?
渡辺市造は、川越で家族を持ちますが、渡辺の姓は使わず、妻の姓を名乗っていました。
そして、渡辺市造のご子孫は、川越で有名な「大玉屋」という老舗の御煎餅屋さんを営まれているということです。
終わりに (参照:土方歳三資料館日記)
今回の記事は、土方歳三資料館館長で土方歳三のご子孫である土方愛さんが、土方歳三資料館日記の中でお話しされていた内容を基にしています。
先日たまたま見つけて、とても驚いたので、もっと多くの方に知ってほしいと思い、記事として書かせていただきました。
詳しい内容をご覧になりたい方は、土方歳三資料館公式サイトをご覧ください。
市村鉄之助だけでなく、新選組にいた若い少年隊士を出来るだけ生かそうとしていた土方。
今もどこかで続いている戦争では、箱館戦争とは比べものにならないほどの若者が命を失っているのだと思うと、ただただ空しく、悔しい思いになります。
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