徳川四天王 本多忠勝 戦国最強の武将の生涯とは?「どうする家康」ではどう描かれる?

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戦国時代
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「どうする家康」では、山田裕貴さんが演じている本多忠勝。

ドラマでは強いだけでなく、ちょっと可愛いところもある本多忠勝ですが、徳川四天王・徳川十六神将そして徳川三傑とも呼ばれたすご~い武将なのです。

今回は、徳川家康の天下取りを支えた本多忠勝の生涯について紹介します。

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本多忠勝の生涯 ~本能寺の変まで~

本多忠勝誕生地の碑

本多忠勝は、天文17年(1548年)三河国額田郡(現・愛知県岡崎市)に生まれました。

父は松平家(徳川家)最古参の安祥譜代である本多忠高。

しかし父は、忠勝が生まれた翌年に戦死したため、叔父・忠真(ただざね)の下で育ちました。

忠勝は、幼いころから松平元康(のちの徳川家康)の小姓として側近くに仕えています。

つまり、忠勝は元康とともに今川家にいたのです。

元康は天文11年(1543年)生まれですから、忠勝より5歳年長でしたが、今川家の人質となっていた元康にとっては、心強い友であったかもしれません。

忠勝の武将人生が始まる

永禄3年(1560年)、忠勝は桶狭間の戦いの前哨戦である大高城への兵糧入れで初陣を果たしました。

鷲津砦攻めに参加し、忠勝は危うく討ち取られそうになりますが、叔父の忠真に救われています。

のちに最強の武将と呼ばれた忠勝ですが、このときはわずか13歳。

まだまだ周囲の助けが必要だったのでしょう。

三河統一へ

岡崎城

桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれたことを期に、元康は今川を離れ、松平の領地・岡崎へ戻ります。

岡崎城に入った元康は、名を家康と改め、三河国の統一に動きました。

忠勝は、主君家康の下で、三河統一に伴う戦に参加し、少しずつ経験を積んでいきます。

叔父である忠真は、槍の名手で、次々と手柄を立てていましたが、あるとき、まだ手柄の無い忠勝に、忠真は自分の手柄を忠勝に譲ろうとしました。

すると忠勝は、

「叔父の助けを借りて武功を立てるようなことはしたくない!」

と叫び、自ら敵陣に攻め込み、首を取ったと言います。

さすが天下無双と言われた忠勝、すでに肝が据わっています。

家康の危機!三河一向一揆

三河統一にあたり、家康は三河の一向宗(浄土真宗)の反乱(三河一向一揆)を受けます。

三河の国には、浄土真宗の信者が多く、家康の家臣にも信者が多くいました。

そのため、家臣でありながら浄土真宗の信者として一揆側に付く者が相次ぎ、この一揆は家康にとって、そして松平家にとっても大きな危機だったのです。

実は忠勝も浄土真宗の信者だったのですが、彼は浄土宗へ改宗した上で、家康の家臣として、一揆制圧にあたっています。

家康にとって非常に強い味方となった忠勝。

彼はこの戦いにより、家康からのより大きな信頼を勝ち取ることになったのです。

旗本先手役に抜擢

一向一揆が収まると、忠勝は家康直属の精鋭部隊である「旗本先手役」に抜擢されます。

忠勝、19歳ながら、与力54騎を束ねる武将となったのです。

これ以降常に家康の側近として活躍をする忠勝。

数々の戦で武功を挙げていきます。

姉川の合戦

姉川の合戦 石碑

元亀元年(1570年)

近江(現・滋賀県)における姉川の合戦では、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が激突しました。

この戦では、家康本陣に迫って来る朝倉軍に対し、忠勝はただ一騎で突撃し、それを必死で救おうとした家康軍の動きが反撃につながり、朝倉軍を討ち崩したとされています。

忠勝は、朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎打ちを行い、その名をとどろかせました。

一言坂の合戦

元亀3年(1572年)には、武田信玄の二股城攻撃に備え、偵察隊として先行した忠勝隊が、武田の本軍と遭遇します。

圧倒的な兵数の不利があったため、忠勝は撤退を余儀なくされますが、武田軍が激しい追撃。

忠勝は、大久保忠左と共に殿(しんがり)をつとめ、見事に撤退を完了させました。

この時の忠勝について、武田信玄の近習・小杉左近は

「家康に過ぎたるものは ただ二つ有り 唐の頭に本多平八」

という言葉を残しています。

「唐の頭」とは、家康が愛用していた唐(中国)産の兜のことで、「平八」とは、忠勝の通称である「平八郎」を指します。

忠勝の勇猛果敢さは、戦国最強軍団と言われた武田軍にも認められたのです。

敵将を惜しむ忠勝

長篠の戦い 家康本陣跡

武田軍とは、三方ヶ原の戦いで、大敗を喫し、忠勝の叔父・忠真も亡くなるほどの痛手を負わされています。

しかし、武田信玄が病死し、続く長篠の合戦では、織田・徳川両軍が武田軍に壊滅的な打撃を与えてました。

いずれの戦でも忠勝は大いに武功を挙げているのですが、長篠の合戦後、忠勝はとても憂いていたと言われています。

不思議に思った武将が忠勝に尋ねると、彼はこういったのです。

「武田軍の惜しい武将たちを亡くしてしまった。これ以降、戦で血が騒ぐこともないだろう」

散々痛い目にあわされた武田軍でしたが、忠勝にとってはまさに好敵手だったのでしょう。

これは、敵ながらあっぱれ、という武田軍への賞賛の言葉でもあったのです。

武田信玄像

決死の伊賀越え

最大の敵・武田軍を滅ぼした織田信長の天下取りは、もうすぐそこに見えていました。

ところが天正10年(1582年)6月、信長は、天下統一を目の前にして、本能寺で斃れます。

この時家康は、堺に滞在しており、忠勝も随行していました。

「信長討たれる」の報に家康は、京へ戻り、信長を討った明智軍と一戦交える覚悟をします。

しかし、忠勝はこれをいさめ、主従とも命がけの伊賀越えを成功させたのです。

家康:わしは信長様の仇を討たねばならぬ
忠勝:殿、ここはご辛抱ください。今明智と戦っても多勢に無勢、万に一つも勝ち目はございません。
家康:構わぬ。わしは信長様の後を追いたいのじゃ。
忠勝:何をおっしゃいます!殿には、まだ生きていただかねばなりません。殿こそ天下を取るお方、ここでむざむざ命を捨てるなど、この平八郎が許しませぬ。
家康:だが、この堺から三河まで、無事に帰りおおせるとは思えぬ。逃げ帰る途中で討たれるなら、京へ戻った方が。
忠勝:この平八をお信じ下され。私が必ず殿をお守り申し上げます。必ず三河までお帰りいただきます。どうか、どうかお考え直しを。

と、こんな会話があったかなかったかはわかりませんが。

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本多忠勝の生涯 本能寺の変~最期

信長の跡を継ぐのは、いったいだれか?

天下取りの行方が混とんとする中、三河・遠江・駿河そして甲斐・信濃までも制した家康と、明智を討つことで信長の仇を取った秀吉は、次第に敵対するようになっていきます。

そして再び忠勝の雄姿が家康を救うのです。

小牧・長久手の合戦

この戦いでは、忠勝は三河の守りを任されていました。

しかし、秀吉軍の大軍に、家康軍が苦戦していることを聞いた忠勝は、わずか500名の兵を率いて、家康のもとへ駆けつけます。

忠勝は、ほんの500mほど先にいる秀吉軍の大軍を前に、ただ一騎で悠々と川の水を馬に飲ませ、彼らを挑発。

これを見た秀吉軍は、進撃を止めたのです。

これは、忠勝の戦いぶりを知っていた秀吉が忠勝の行動の裏にある策略を見抜いていたためとも、忠勝の忠義と勇敢さを称えての決断とも考えられるのですが、本当のところはわかりません。

こののち、忠勝は秀吉から「天下無双の大将」と賞賛を受けています。

忠勝、大名になる

家康と秀吉の和睦で小牧・長久手の戦いが終わり、世は秀吉の時代となっていきます。

家康は、関東250万石の領地へ移ると、忠勝は上総国(現・千葉県北部)10万石の領地を与えられました。

これは、井伊直政の12万石に次ぎ、朋友の榊原康政に並ぶ2番目の広さです。

家康の下から離れた土地に配されたのは、「譜代の武将は、国境に配置することで敵に備えるべき」という家康の方針によるものでした。

真田家と血縁関係に

家康が秀吉に従ったことで、徳川家と敵対していた真田家との関係改善が図られます。

家康は、忠勝の娘・小松姫と真田昌幸の嫡男・信之との結婚を決めました。

始めは、真田家の方が、家康の家臣の娘と真田家の嫡男では釣り合わないと、拒否しますが、小松姫を家康の養女にしたことで決着します。

こうして忠勝と真田家が血縁関係になったことで、関ケ原の戦いでの真田家苦渋の決断もつながるのですが、そのあたりの詳しい話はまた今度。

関ケ原の合戦で見せた忠勝最後の奮戦

秀吉の死後、最も天下に近い男となった家康でしたが、それを阻止し、豊臣家の天下を守ろうとしたのが石田三成です。

慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦は、天下をかけた大きな意味のある戦いでした。

忠勝はこの戦いで90もの首級を挙げる大活躍をしています。

この武功を福島正則に賞賛された忠勝は一言、「敵が弱すぎただけだ」と言い放ったそうです。

天下分け目の大いくさも忠勝にとっては、それほど難しい戦いではなかったのかもしれません。

真田の助命嘆願を行う

関ケ原の戦いで、真田家は東軍と西軍に分かれることになりました。

嫡男の信幸は、忠勝との縁もあり、東軍へ。

父・昌幸と信繁(幸村)は、西軍についたのです。

西軍についた父と弟を助けるため、信幸は忠勝を頼ります。

忠勝は、信幸とともに家康へ昌幸と信繁の助命嘆願をしました。

真田昌幸・信繁という優れた武将がまた失われることを、忠勝自身も避けたかったのかもしれません。

この嘆願により、家康は真田父子を紀州九度山への配流という措置にとどめました。

伊勢桑名藩10万石に

関ヶ原の功績により、家康は忠勝に5万石を加増しようとしますが、忠勝は固辞し、結局伊勢桑名藩10万石に移封されます。

これは西国大名への防衛としての意味があったと考えられますが、あれだけの功績に対する褒美としては物足りない気がします。

天下の趨勢が決まり、平和な世の中となるにつれ、武に秀でた将はもう無用だったということなのでしょうか。

おそらく忠勝自身も、わかっていたのかもしれません。

桑名藩に移った忠勝は、町割りや宿場の整備を行ったり、城郭の修繕をしたりすることで、桑名藩の発展に心を尽くしています。

しかし、忠勝の心にはぽっかりと穴が開いてしまっていたのかもしれません。

もう戦がないということは自分の出番がないということ、そう嘆いた忠勝は甲冑姿の絵姿を残すように命じたそうです。

それがこの肖像画です。

忠勝は、どんな思いで座っていたのでしょう。

本多忠勝肖像画

慶長9年(1604年)ごろから、忠勝は病がちになり、家康に隠居を申し出ていますが、この時点では許されませんでした。

これは、大坂にいる豊臣秀頼の勢力は、まだまだ無視することはできない状況だったため、戦国最強の誉れ高き本多忠勝がにらみを利かせる必要があったからではないかと思います。

年老いていても、忠勝の名は敵を恐れさせるには十分すぎるほどの効果があったはずですから。

自分の最期を悟る

ある日、忠勝は小刀で自分の持ち物に名前を彫っていました。

すると手元が狂い、左手にかすり傷を負ったのです。

忠勝は生涯で57回も戦に赴きましたが、1回も傷を負ったことがありませんでした。

「本多忠勝も傷を追ったら終わりだな」

そうつぶやいた忠勝は、数日後に亡くなったと言われています。

忠勝享年63歳。

慶長15年(1610年)閏2月のことでした。

出展:Wikipedia
桑名にある本多忠勝本廟

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忠勝はどれほど強かったの?

当代無双の戦国武者・本多忠勝とは、いったいどのような戦い方をしていたのでしょうか。

共に戦った武者の言葉や敵の言葉などから、彼の戦いぶりを見てみましょう。

鬼のような形相で指揮

忠勝の部下だったというある武者が語ったところによると、忠勝はいつも

「自分の言葉通りに動けば、皆に良い働き場所を与える」

と言っていたそうです。

そしていざ戦いの場になると、大声を張り上げて指揮し、頬を膨らまし、口から泡を飛ばす勢いでまるで鬼のような凄まじい形相だったと言います。

「殿(忠勝)の指揮の下で戦うと、背後に鉄の楯を背負っているようで、本当に頼もしく戦いやすかった」

忠勝への武者の強い信頼がよくわかる言葉です。

信長や秀吉にも一目置かれた忠勝

忠勝の武勇ぶりは、あの信長に「花も実も兼ね備えた武将」とまで言わしめたほどでした。

また秀吉には、「日本第一、古今独歩の勇士」と称されています。

武田軍や秀吉軍の大軍を前に、家康を守るために自らの命を投げ出す勇気をもった忠勝は、強いだけではなく、忠義と誠心を持った武将として、彼らの中に強く刻まれたのでしょう。

忠勝愛用の蜻蛉切と鹿角脇立兜

忠勝が愛用していた槍には、蜻蛉切(とんぼきり)という名が付けられています。

槍の穂先に止まったとんぼ(蜻蛉)が真っ二つになったという逸話が由来となっているそうです。

「鹿角脇立兜(かのわきだてかぶと)」と呼ばれている兜をつけ、蜻蛉切を持った忠勝が、戦場へ出ると、敵が追い散らされてしまう様子から、

「蜻蛉が出ると 蜘蛛の子散らすなり 手に蜻蛉 頭の角の凄まじき 鬼か人か しかとわからぬ兜なり」

という句まで詠まれています。

鹿角脇立兜

忠勝最期の言葉

忠勝は臨終の際、

「侍は、首取らずとも、不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」

という言葉を、そして辞世の句として

「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」

と残しています。

たとえ武功を残さなくても、主君に忠義を尽くし、討ち死にするものが侍であるといいつつ、「死にたくない」と3回も続けています。

ですが死にたくないその理由は「深きご恩の君」を思っているからなのです。

徳川家康像

主君を残しては死ねない、まだ主君とともに戦っていたいという忠勝の無念の思いがこもっているようです。

どれだけ忠義者なのか…と若干あきれるほどですが、これこそが本多忠勝の魅力なのです。

終わりに

すさまじいまでの忠義心と勇敢さを持ち合わせた本多忠勝。

まさに戦の世を選んで生まれ落ちた人でした。

しかしその分、関ケ原以降の彼の生き方に淋しさも感じてしまいます。

家康がこの世を去ったとき、あの世で待っていた忠勝は久しぶりの主君との対面に喜んだことでしょう。

私たちには想像もできない、主従関係ですが、彼らにとってはあの生き方こそが武将としてのプライドであり、生きがいだったのかもしれません。

 

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