悲運でつながった2人の新選組隊士 河合耆三郎と沼尻小文吾とは?

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新選組
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幕末最強の剣客集団と言われる新選組。

彼らの強さは、鉄の掟・局中法度があったからだと考えられています。

違反すれば、すべて切腹という厳しい法度のもと、多くの隊士が無念の切腹を遂げています。

中でもよく知られている人物が、河合耆三郎かわいきさぶろうではないでしょうか。

今回は、河合耆三郎と彼の切腹によって運命が変わってしまった沼尻小文吾について、お話しします。

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算術で入隊した河合耆三郎

河合は、播磨国高砂(現・兵庫県高砂市)の出身で、実家は裕福な米問屋でした。

新選組に入隊したきっかけは、大坂の商家に嫁いでいた妹の推薦だと言われています。

河合はおそらく、長男ではなかったため、自身の生きる場所を探していたのかもしれません。

新選組の前身である壬生浪士組が、大坂で隊士募集をした際に応募したものとみられ、文久3年6月ごろには入隊しています。

入隊当初から勘定方として、新選組の経理面の仕事を受け持っていました。

池田屋事件にも出動

剣に自信のある者が多かったであろう隊士の中で、商家出身の河合の剣術は、抜きんでていたわけではありません。

ですが、あの池田屋事件では、土方隊としてしっかり出動しています。

後に、金十両・別段金五両という恩賞金も受けていますので、実際はある程度の腕前があったのかもしれません。

運の悪さが重なった末の切腹

慶応2年(1866年)2月。

隊の公金50両が不足していることが発覚します。

不足の理由は、不明でした。

隊士の誰かが盗んだのか、無断で借りたのか…。

理由はどうあれ、これは勘定方の責任です。

河合は、土方に猶予をもらい、資金を借りるため、実家へ早飛脚を送りました。

規律に厳しい土方が、河合に猶予を与えたのは、なぜでしょうか?

これは想像ですが、河合の人となりとそれまでの仕事ぶりを、土方はしっかりと見ていたのです。

まず、富裕な実家を持つ河合が金を盗むはずがないことは確かです。

誰かが河合の目を盗んで金をとったとしか考えられません。

それ以上にこれまでに全くミスのなかった勘定方としての河合を土方は信頼していたのではないでしょうか。

鬼の副長と言われた土方ですが、むやみに隊士を処罰したわけではなかったのです。

実家から50両が送られてくれば、すべて丸く収まっていました。

しかし、なぜかお金は送られてきません。

待てど暮らせど実家からの早飛脚は来なかったのです。

これは、実家の父親がたまたま出かけていて、河合の手紙を見るのが遅れたためでした。

父親は、急いでお金を送りましたが、間に合いませんでした。

河合の最期

決められた日までに、50両というお金はそろいませんでした。

土方は、河合に切腹を命じます。

「金は、まだ届きませんか?」

「飛脚はまだ来ませんか?」

切腹の間際まで、何度も何度も河合は周囲の隊士に尋ねていました。

慶応2年2月12日

河合耆三郎は切腹して果てました。

享年29歳。

河合切腹後

河合が切腹した後、彼が待ち続けた50両が届けられます。

息子の死を聞いた家族は、播磨からやってきて屯所前で騒ぎ立てたとそうです。

そして、新選組に見せつけるように息子の葬儀を行い、新選組が建てた河合の墓(光縁寺)とは別に、壬生寺に立派な墓を建てました。

壬生寺の壬生塚

河合切腹の本当の理由とは?

河合が切腹することになった理由には、諸説あります。

もっとも知られている説は、

近藤勇が、深雪太夫を身請けするための費用が足りず、隊費から賄ってしまったことが原因

というものです。

小説やドラマにも取り上げられていたために有名になった話ですが、河合の切腹と深雪太夫の身請けの時期が合わないことから、信ぴょう性は薄いとされています。

他の理由としては

・深雪太夫以外の芸妓の身請け費用の捻出などに絡んで、河合が経理上のミスをした

・近藤の女性関係への浪費がたびたびあったために、勘定方として河合が苦言を呈したために排除された

・何らかの理由があって、河合自身が資金を流用していた、もしくは使い込んでいた

・河合が何らかの裏切り行為をした

などが考えられています。

あくまで個人的な意見ですが、文久3年から隊士として、勘定方として働いてきた河合が裏切り行為をすることはないように思います。

また資金流用も、河合の実家の状態を考えるとあまり真実味がありません。

土方が、切腹までの猶予期間を与えたのが本当なら、たまたま何らかの理由で隊費からいくばくかのお金が流用され、それが補充される前に運悪く発覚してしまったのではないでしょうか。

そして、何らかの理由というのは、幹部クラスの隊士に関わることなのかも…。

それがわかっていたからこそ、土方は河合を助けようとした…なんてちょっとドラマティックすぎるかな?

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運が悪かった?沼尻小文吾

河合耆三郎切腹の際、介錯をしたのが、沼尻小文吾ぬまじりこぶんごという隊士です。

沼尻は、元治元年(1864年)10月、江戸での隊士募集に応じて入隊しています。

奥山念流の使い手で、新選組では尾形俊太郎の五番隊に所属していました。

奥山念流は、剣術とともに柔術も伝えた流派で、沼尻は柔術の方が得意だったそうです。

河合の介錯を命じられた沼尻

河合切腹が言い渡され、沼尻は介錯を命じられました。

介錯とは、切腹する者の苦しみを少しでも和らげるため、首を斬り落とすことです。

これは、誰でもできることではありません。

相手に苦痛を与えずに、一閃で首を落とすのは、相当な熟練が求められる技でした。

沼尻も腕に覚えはあったはずなので、それほど不安はなかったはずです。

ですが…。

「まだお金は届きませんか」

「使いは、まだ来ませんか」

河合の悲痛な言葉に、沼尻は冷静になれなかったのかもしれません。

いざ介錯というその時。

1回目は肩に、2回目は頭に、そして3回目でようやく首を落としたのです。

ただでさえ、辛い切腹が、河合にとっては悲惨なものとなってしまいました。

「人間、あれほど悲しい声が出るとは思わなかった」

介錯を終えた後沼尻が言った言葉からも、河合の苦痛が想像できます。

「横向き小文吾」

河合の遺族は、新選組への抗議とともに、河合に必要以上の苦しみを与えた沼尻へも怨みの目を向けました。

河合が亡くなってしばらくたったある日、沼尻は河合の縁者に襲われ、首を負傷します。

かろうじて一命はとりとめたものの、沼尻の首は曲がったままになってしまいました。

以来、隊士たちからは「横向き小文吾」というあだ名をつけられ、からかわれたそうです。

その後の沼尻

介錯には失敗、「横向き小文吾」となってからも、沼尻は隊に残り、伍長になっています。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いにも参戦。

戦で負傷し、大坂へ撤退した後、江戸へ帰還します。

その後、隊を脱走しました。

伝承では、明治35年(1902年)まで生き延び、老衰でこの世を去ったと言われています。

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終わりに

河合耆三郎は、その悲惨な最期のために多くの新選組作品に登場しています

印象深いのは、大河ドラマ「新撰組!」です。

第38話「ある隊士の切腹」

大倉孝二さん演じる河合耆三郎がとても切なくて、哀しかったことを覚えています。

興味のある方は、一度ご覧ください。

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