後白河天皇が即位したのは、平氏や源氏が台頭しつつあった平安末期です。
この時代、歴史上には、藤原貴族や武士たちがこれでもかというほど出てくるために、とってもややこしいのです。
誰と誰が味方で、敵か。
昨日は味方だったのに今日は?みたいな。
今まで避けてきたこの時代ですが、一念発起飛び込んでみると、なんだか結構面白い。
ややこしいけれど、様々な人間模様が見えて面白いのです。
中でも後白河天皇は、いろんな面を見せてくれます。
ということで、今回は、後白河天皇の生涯を紹介してみようと思います。
この時代としては、とんでもない長寿(65年)を全うした長~い人生ですが、何とかわかりやすくお話ししたいと思いますので、ぜひ最後までお読みくださいね。
後白河天皇の評価は様々ですが、この記事では私の考える後白河天皇の姿を紹介しています。
あくまでも一つの考え方・見方であることをご理解くださいね。
誕生から青年期まで
大治2年(1127年)9月
後白河天皇は、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子(しょうし・たまこ)の第四皇子として誕生しました。
雅仁と命名され、11月には親王になります。
雅仁親王が生まれたときは、曽祖父の白河法皇が権勢をふるっていましたが、2年後に亡くなり、父である鳥羽上皇の院政が始まりました。
この時の天皇は、鳥羽上皇の第一皇子である崇徳天皇です。
母は、雅仁親王と同じ藤原璋子。
鳥羽上皇は、崇徳天皇を璋子と白河上皇の間に生まれた不義の子だと疑っていました。
そのため、崇徳天皇を嫌い、「叔父子」と呼んでいたとも言われています。
同じように、雅仁親王に対しても、鳥羽上皇の愛情は薄かったと考えられます。
一方、第四皇子の雅仁は、皇位継承とは全く無縁だったので、とても気楽な立場でした。
このころにはやっていた今様(今の流行り曲のようなもの)にのめり込んだ雅仁親王は、明けても暮れても今様の稽古をして、喉を傷めるほどだったそうです。
そんな雅仁親王に、周囲の人々はあきれ返っていました。
雅仁親王の知らないところで、皇位継承の戦いが行われます。
院政を開始した鳥羽上皇は、璋子を遠ざけ、藤原得子を寵愛し、体仁という親王が生まれていました。
鳥羽上皇は、崇徳天皇に政権を渡さないための手を打ちます。
鳥羽上皇は、体仁親王を崇徳天皇の養子にすることを条件に、崇徳天皇に体仁親王への譲位を迫りました。
院政を敷くためには、上皇が天皇の父であるという立場が絶対条件でした。
ですので、崇徳天皇の養子となった体仁親王が天皇になれば、崇徳上皇の院政が可能になるのです。
崇徳天皇は、鳥羽上皇の言葉に従いました。
体仁親王はここに近衛天皇となりました。
ところが、近衛天皇は、崇徳上皇の子:皇太子であるはずが、弟:皇太弟のままだったのです。
崇徳上皇は、ただ譲位しただけで、院政もできなくなりました。
鳥羽上皇の院政は続き、雅仁親王の今様三昧の日々も続いていました。
思いもよらない天皇即位
久寿2年(1155年)
近衛天皇がわずか17歳で崩御してしまいました。
そこで候補になったのは、雅仁親王…ではなく彼の子・守仁親王です。
守仁親王を鳥羽法皇(得度して上皇から法皇になっています)の養子にして天皇にすれば、鳥羽法皇の院政は続けられます。
でもなぜ雅仁親王ではないのか。
相変わらず今様に熱中する雅仁親王に、鳥羽上皇もそのほかの人々も彼は天皇の器ではないと考えていたようです。
ですが、父を飛び越えていきなりその息子が即位するというのは、さすがにあからさますぎるという議論でもあったのでしょう。
守仁親王が成長するまでの中継ぎとして、雅仁親王が即位することになりました。
しばらくの間だし、政権は鳥羽法皇が握っているのだから、そんなに問題はないだろうという結論になったのかもしれません。
ここに雅仁親王は、後白河天皇になりました。
このような事態に、おそらく本人が一番驚いていたかもしれませんね。
でも、周りに期待されていないことを自覚していたらしい後白河天皇は、相も変わらず今様に熱中し、真面目に政務に励むことは考えていなかったようです。
鳥羽法皇の政権は、絶対的な安定を迎えたのです。
保元・平治の乱
鳥羽法皇の長い院政が始まると思われたのもつかの間、後白河天皇即位からわずか1年後、鳥羽法皇が崩御しました。
これに反応したのが、完全に政権の外に置かれていた崇徳上皇です。
鳥羽法皇の崩御により、崇徳上皇が院政を行うチャンスが見えてきたのです。
はめられた崇徳上皇
崇徳上皇のもとには、藤原摂関家で家督争いをしていた藤原忠実・頼長父子が接近します。
後白河天皇のもとには、忠実・頼長父子と争っていた頼長の異母兄弟・忠通が接近していました。
後白河側には、とても頭の切れる信西という側近もいました。
保元元年(1156年)7月8日
「忠実・頼長父子が、崇徳上皇を擁し、諸国より兵士を募って、謀反を企てているという噂がある。これを止めさせなさい」
という後白河天皇の綸旨(命令書)が全国の国司に発せられました。
この時点で、崇徳上皇側は、謀反の準備も覚悟もまだできていません。
しかし、もはや挙兵するしかない状況に追い詰められてしまったのです。
保元の乱勃発
7月11日未明
後白河軍が、崇徳上皇側が拠点としていた白川殿を襲撃しました。
兵の数では圧倒的に後白河軍が勝っていたため、崇徳上皇側はあっという間に瓦解しました。
かろうじて逃げだした崇徳上皇ですが、すぐに捕縛されました。
崇徳上皇は讃岐へ流罪となり、味方した主な兵たちは、ことごとく処刑されたのです。
そのころ、後白河天皇は?
保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いが中心となった戦いですが、後白河天皇は、この乱の指揮を取っていません。
乱を主導していたのは、藤原忠通と信西でした。
形式的な存在でしかなかった後白河天皇は、乱後の処罰にもほとんど関与していないと考えられます。
保元の乱から2年後、後白河天皇は、予定通り守仁親王(二条天皇)に譲位して、上皇になりました。
後白河上皇となったとはいえ、彼が直接政務に携わることはありませんでした。
政権は、信西が握ったのです。
二条天皇派と後白河上皇派の対立
後白河派の信西が権力を持ったことに反発したのは、二条天皇派です。
鳥羽上皇が本当に皇位を継いでほしかったのは、二条天皇でしたし、後白河上皇のだめだめぶりは朝廷内にしっかり浸透していました。
その上、後白河上皇側でも、信西と藤原信頼(後白河上皇の近臣)が反目していました。
不安定な朝廷の中で、微妙なバランスで立っていた政権は、やがて平治の乱へと向かうのです。
平治の乱勃発
平治元年(1159年)12月9日深夜
藤原信頼は、源義朝の軍勢に後白河院・三条東殿を襲撃させました。
後白河上皇は、二条天皇のいる一本御書所に幽閉され、信西は殺害されます。
信頼は、後白河上皇と二条天皇を監視下に置き、政権を握ったのです。
藤原信頼はなぜ後白河上皇の館を襲った?
信頼は後白河上皇の近臣で後白河上皇にも近しい存在でしたが、それ以上に信西の存在が憎かったのです。
信西を亡きものにして、後白河上皇と二条天皇を自分の手駒にしたかったのだと考えられます。
しかし、政権は信頼の手からすぐに逃げてしまいました。
平清盛の台頭
都の政情異変にいち早く対応したのが、平清盛でした。
平清盛は、保元の乱の時、後白河派について一躍台頭していました。
平治の乱の時には都を離れていたため、急いで戻ってきます。
清盛は、幽閉されていた後白河上皇と二条天皇を助け、藤原信頼と源義朝を追討しました。
これにより、清盛を中心とする平氏一門の地位は一躍高まったのです。
後白河上皇の失脚
平治の乱により、信西と信頼という近臣を失った後白河上皇でしたが、かろうじて政権の一端を握ることができていました。
しかし、中心となって政事を行ったのは、若年ながら聡明な青年に育っていた二条天皇です。
「天皇として政務を司る器にはない」という後白河への評価はいまだに変わっていません。
それは、平清盛も同じことでした。
清盛は、非常にバランス感覚のある人で、常に周りに心配りをして中立を保ちつつ、自分が最も有利になる位置を選ぶ人物でした。
ですので、後白河上皇の政治的な能力は認めていないけれど、その存在価値には一目置いています。
一方、後白河上皇も清盛との結びつきは重要だと考えていました。
そんな時、後白河上皇は、平滋子という女性に一目ぼれします。
滋子は、清盛の妻・時子の異母妹にあたるため、後白河上皇と平家とのつながりは(清盛の望みとは裏腹に)ぐんと強くなりました。
やがて滋子は、男児を産みます。
後白河上皇は、この子を皇太子にするように動きますが、その計画はすぐに二条天皇側にばれてしまいました。
清盛も後白河の計画には反発し、結局後白河は政治の場から排除されてしまいました。
清盛に頼る後白河
これ以後約4年の間、後白河上皇は政権から遠ざかります。
その間、後白河は仏教にのめり込んでゆきました。
比叡山延暦寺や日吉神社へ度々参詣し、特に紀州の熊野詣は生涯で34回にもなります。
車も電車も飛行機もない時代、徒歩で紀州和歌山まで、何と34回も行っているのは、後にも先にも後白河上皇だけです。
その大変さは、後白河自身も身にしみてわかっていたため、京の都に熊野権現を勧請した社をいくつも建立させています。
また、後白河上皇の住まいである法住寺殿の敷地内には、千体の観音像をお祀りした蓮華王院(三十三間堂)を建立しました。
これらの寺社建立の背景には、清盛からの大きな資金援助がありました。
政権から遠ざかっている後白河でしたが、清盛は完全に後白河との縁を絶つことはしませんでした。
無駄な敵を作らないのが清盛のモットーですから、当然と言えば当然ですが、それにしてもすごい資金力です。
そんなこんなで、政治からはのけ者にされていた後白河上皇は、それなりに好きに生きていたとも言えますね。
後白河の院政、復活!
永万元年(1165年)6月25日
二条天皇が病気のため、崩御しました。
その間際に二条天皇の子・順仁親王へ譲位し、六条天皇が即位します。
しかし、六条天皇は、まだ1歳にもならない乳飲み子でした。
天皇を補佐する摂関家・藤原氏にも力のある人物はいません。
すると…棚ぼた式に政権が後白河上皇のところに戻ってきたのです。
平清盛も、今回は後白河上皇に付くしかありませんでした。
翌年10月
後白河は、滋子との間に生まれた子・憲仁親王を皇太子にします。
仁安3年(1168年)2月
六条天皇を譲位させ、憲仁親王が即位、高倉天皇となります。
息子が天皇となったことで、後白河上皇の院政が改めて開始されました。
翌年、後白河上皇は出家して、後白河法皇となりました。
後白河と平家
高倉天皇の実母・平滋子は、皇太后となり、建春門院と呼ばれるようになります。
天皇の秘書的な位置の蔵人頭には、清盛の弟・教盛と滋子の叔父・信範が就任。
天皇の側近は、平家一門で固められていったのです。
清盛は、次に娘の徳子を高倉天皇へ入内させようとしました。
もし、徳子と高倉天皇との間に、男児が生まれれば、清盛は天皇の外祖父となり、平家の力が絶大なものになるのです。
そうなると後白河の存在は、平家の権力増大にとって必要がなくなります。
さすがの後白河もこの提案にはいい顔をしません。
しかし、ここで後白河の背中を押したのは、後白河が寵愛する建春門院滋子です。
建春門院は、非常に美しいうえに頭が良く、清盛と後白河の微妙な関係をうまく調整していました。
彼女に頼まれると断れない後白河は、徳子の入内も結局認めたのです。
これで平家の隆盛は約束されたようなものでした。
好奇心旺盛な後白河
朝廷内での平家の立場が安定したことに安心したのか、清盛は、政界の表舞台から引退します。
息子の重盛に家督を譲ると、京を離れ、福原(現・兵庫県神戸市兵庫区周辺)へ移り住みました。
そして、大輪田泊(現・神戸港西部)を整備して、日宋貿易を始めたのです。
これにより、平家は大きな利益を得ます。
平家との密な関係を維持したい後白河は、清盛の日宋貿易にも口を挟まず、逆に積極的に知りたがっていたようです。
他の天皇や貴族とは一味違った後白河法皇の逸話が残っています。
日宋貿易を始め、福原に宋人までやってくるようになっていたころ、清盛は、後白河を福原へ招いています。
近臣の招きに応じて、天皇や上皇が都を離れるなど前代未聞のことです。
その上、後白河は宋人にも会っているのです。
当時の日本は極めて排他的で閉鎖的でした。
貴族たちは、唐物は珍重し、喜んで買うのですが、外国人に対しては、卑しい存在だという認識でした。
そんな外国人に、天皇の父たる後白河が面会しているのです。
それを聞いた貴族の九条兼実は日記に「まさに天魔の所業だ」とまで書いています。
後白河法皇には、そのような一般常識はどうも通じなかったようです。
というか、それ以上に好奇心が勝ったのです。
後白河の好奇心旺盛なばかりに起こした行動は、ほかにもあります。
謀反人が処罰され、首がさらされると、お忍びで見物に行ったり、賀茂祭(葵祭)をお忍びで見に行っています。
また、芸能に関しても熱中しています。
もっとものめり込んだ今様は「梁塵秘抄」という本を出すほど追及しています。
今様というのは、庶民から貴族まで幅広い層に愛された芸能で、今ならポップスに当たるでしょうか。
後白河は、絵にも興味を示しています。
有名な「信貴山縁起絵巻」や「伴大納言絵巻」なども後白河の指示で作られました。
政治の世界では、もう一つだった後白河ですが、趣味の世界では水を得た魚のように生き生きしているようです。
ですが、後白河法皇という立場は、彼を趣味の世界に没頭させませんでした。
平家との対立
後白河は、遠方に行くときや見物をするときに、よく建春門院滋子を伴っていました。
承安4年(1174年)には、清盛の招きに応じ、滋子とともに安芸国厳島神社へ参詣に行っています。
この時も貴族たちは、後白河の行動に眉をひそめていますが、後白河の好奇心は抑えられないのです。
愛する滋子とともに、厳島の風景を楽しみ、大好きな今様を謡う…。
後白河法皇の幸せのひとときでした。
滋子の死
ところが安元2年(1176年)6月
滋子が突然の病に倒れました。
様々な治療を施しましたが、そのかいもなく、7月8日に滋子は35歳という若さで亡くなりました。
記録には残っていませんが、後白河は大きな悲しみの中にいたことでしょう。
後白河は、自分の死後、遺体を滋子の横に葬るように指示しています。
彼女の死は、後白河の心を悲しみのどん底に落としただけでなく、平家との関係も悪化させていきました。
鹿ヶ谷の陰謀
後白河法皇と平家との調停役だった滋子が亡くなったことで、両者の態度は次第に硬化していきました。
朝廷内も緊張状態が続く中、延暦寺が後白河と対立します。
比叡山延暦寺は、強力な力を持っていたこともあり、朝廷の延暦寺に対する措置に不満があると、強訴することがありました。
強訴
武装化した僧侶・僧兵が仏法の権威をかざして、無理難題を朝廷に要求すること
安元3年(1177年)3月
加賀国での寺社のもめごとが、延暦寺の強訴にまで発展します。
延暦寺の度々の横暴に腹を立てていた後白河は、とうとう堪忍袋を緒が切れました。
清盛に延暦寺討伐を命じたのです。
無駄な敵を作らず、バランスよく付き合ってきた清盛は、延暦寺ともことなかれでやってきていましたが、後白河の怒りはそれを許しません。
延暦寺とは戦いたくない、でも後白河の命には従っておかなくては…。
そこで清盛は考えました。
6月1日
後白河の院政に携わっていた西光(信西の息子)や藤原成親、僧の俊寛らが、平家打倒を企んだとされ、捕らえられたのです。
世に言う「鹿ヶ谷の陰謀」です。
実はこの陰謀、そもそもでっち上げだったと考えられています。
西光らが鹿ケ谷の山荘に集まっていたのは、本当のようですが、単に宴会をしていただけ。
延暦寺攻撃を中止するとともに、後白河の勢力を削るための、清盛の策略だったのです。
捕らえられた者は、公開処刑されたり、遠国へ配流されました。
清盛の計略通り、延暦寺攻撃は中止され、後白河は有力な側近を失うことになってしまいました。
後白河、2回目の失脚
翌治承2年(1178年)5月
高倉天皇の妃・徳子が懐妊します。
生まれたのは皇子。
平家による政権がもう目の前です。
清盛にとって、もう後白河は必要のない人間。
後白河は清盛によって、京の南・鳥羽殿へ連行され、幽閉されてしまいました(2回目の幽閉)
遊びをせんとや 生まれけん
「遊びをせんとや 生まれけん 戯れせんとや 生まれけん」
これは、後白河法皇が作った今様集「梁塵秘抄」におさめられている唄の一説です。
この唄の通り、後白河は幽閉中でも今様を謡っていました。
ここまでくると、変人かも。
でもこの変人、いや後白河法皇は、意外にも庶民に人気があったようです。
後白河の今様の師匠は、遊女の乙前という人だったそうですが、年老いた彼女が体調を崩したとき、後白河は、彼女の病が良くなるようにと毎日お経を読んであげたのです。
間もなく乙前は亡くなりますが、後白河は、今度は彼女が無事に成仏するように読経しています。
1人の遊女のために、法皇がお経を一生懸命読む、そんな帝は今までいませんでした。
この時に限らず後白河は、身分や人種にこだわらず接していたようです。
清盛が後白河の住む法住寺殿を襲い、鳥羽殿へ幽閉されたときにも、民衆は悲しみに暮れたそうです。
不思議な人物・後白河の気さくさと魅力が民衆にそうさせていたのではないでしょうか。
驕る平家の陰り
治承4年(1180年)2月
高倉天皇が譲位し、わずか3歳の言仁親王が即位、安徳天皇となります。
即位した天皇が、最初に参詣するのは、賀茂神社や春日大社など、京都周辺にある由緒正しき神社だというのが慣例でした。
ところが清盛は、安徳天皇最初の参詣場所を、安芸の厳島神社にしたのです。
これに猛反発したのが、延暦寺・興福寺などの僧たちです。
元々反発しあっていた僧たちが、反平家として団結していったのです。
平家のやり方に不満を持ったのは、僧だけではありませんでした。
以仁王の挙兵
後白河法皇には、高倉天皇とは別に以仁王という皇子がいました。
彼は、後白河の第三皇子でしたので、兄の二条天皇が亡くなったときに、一番皇位に近かったのです。
ところが、その地位は、滋子が産んだ異母弟(高倉天皇)に奪われてしまいました。
さらに、次の天皇は、高倉天皇と徳子の間に生まれた皇子(安徳天皇)が継いだことで、以仁王の皇位継承の可能性は完全になくなったのです。
皇位への希望を奪われた平家に対し、以仁王は怨みを持っていました。
以仁王は、延暦寺をはじめとする寺社の、平家への叛意を受け、謀反をおこしたのです。
治承4年4月
以仁王は、全国の源氏に向け、挙兵を促す令旨(命令・指示書)を出します。
全国の源氏を巻き込んだ以仁王の反乱でしたが、平家の大群の前では、勝負になりませんでした。
宇治川の戦いにおいて、平家の勝利となり、以仁王は討ち死にしてしまいました。
しかし、以仁王の令旨は、各地の源氏武士たちを奮い立たせ、源平合戦へなだれ込むのです。
平治の乱で殺害された源義朝の子・源頼朝も以仁王の令旨を受け取ります。
伊豆に流されて20年もの歳月が経っていました。
福原遷都
以仁王の反乱以後、平家への反対勢力が京に増えてくると、清盛は安全な福原への遷都を強行しました。
後白河法皇も強制的に福原へ移され、貴族たちもそれに従います。
しかし、短期間での遷都には、無理が多すぎました。
貴族たちが住む屋敷も十分になく、平家の館への仮住まいをするような状態に、貴族だけでなく平家一門からも不満が続出です。
結局わずか数ヶ月で都は京に戻ってきました。
武士魂を忘れた平家の武士
清盛が福原でぐずぐずしているうちに、源氏、特に源頼朝の勢力はどんどん拡大していました。
清盛は、これ以上頼朝を放っておいては危険だと思い、頼朝討伐軍を派遣します。
治承4年11月
駿河国富士川(現・静岡県富士市)で相対した両軍でしたが、平家軍の士気は全く上がっていませんでした。
夜陰に乗じて平家軍の背後に回ろうとした源氏軍の気配に驚いた水鳥が一斉に飛び立つと、平家軍は「敵が現れた!」とばかりに武器も何もかも放り投げて逃げてしまったのです。
なんと源氏の不戦勝です。
清盛は怒り心頭!
平家の天下は今や風前の灯火でした。
平清盛の死
明けて養和元年(1181年)正月
高倉上皇が崩御します。
安徳天皇は、まだ幼児です。
平家の朝廷での地位が危ぶまれる状況に陥った今、清盛は後白河の院政を認めざるを得ませんでした。
しかし、その清盛にも突然、死が訪れたのです。
高倉上皇崩御からわずか10日余りたったある日、清盛は激しい頭痛に襲われ、高熱を出しました。
高熱に苦しんだ清盛は、閏2月4日、あっけなく亡くなりました。
後白河法皇は、目の上の大きなたんこぶだった清盛が亡くなったことで、大きな重圧から解放されたのです。
清盛が亡くなった日、後白河が住む法住寺殿からは、にぎやかに舞い踊る声が聞こえたそうです。
平家の滅亡
清盛の跡を継いだのは、清盛の子・宗盛でした。
宗盛は、後白河に対し、父・清盛の数々の非礼を詫び、恭順する姿勢を示しました。
しかし、源氏と平家の争乱は、少しずつ京の都を巻き込んでいきます。
寿永2年(1183年)5月
平家は、総力を挙げて源氏の木曽義仲軍と戦った倶利伽羅峠の戦いで、大敗します。
敗北した平家が京へ帰ってくると、そこはもうパニック状態でした。
逃げる後白河
義仲の軍が今にも京へ攻め寄せると焦った平家は、都落ちを決意します。
できるだけ早く都落ちをし、かつ復活を目指すためには、玉である安徳天皇はもちろん、院政を復活させて今や実力者である後白河法皇も連れて行かなくてはなりません。
なぜなら、もし後白河を都に残しておけば、入京した義仲が、平家追討の院宣を後白河に出させるからです。
しかし、後白河はその上手を行きました。
いよいよ都落ちというその時、平家の前から後白河の姿が消えたのです。
後白河の姿は、比叡山にありました。
あんなにきらい、清盛に襲わせようとまでさせた比叡山へ、後白河は逃げ込んでいたのです。
治承4年7月25日
平家が都落ちしました。
その前日、後白河は平家を見捨て、比叡山へ逃げていたのでした。
「治天の君」=天下を広く良く治める君
後白河は、「治天の君」として都と諸国の民の生活を守るために、京に残ったのです。
誰とも分け隔てなく接してきた後白河は、歴代天皇・上皇の中でも最も世情に通じていた帝ではなかったでしょうか。
そんな彼だからこそ、人々の安らかな生活を守ろうと、思い切った行動をとったのだろうと私は考えています。
「治天の君」を追って、貴族たちも次々と比叡山へ逃げ込んできました。
後白河と木曽義仲
平家が去った後、後白河は都に戻ってきました。
そして、義仲に平家追討の宣旨を出します。
そして、平家一門の朝廷での役職をすべて解き、所領を没収しました。
意気揚々と入京してきた義仲に会った後白河法皇はですが、礼儀を知らない義仲に対してあまり良い印象は持っていなかったと思われます。
源頼朝が京へやってくる前に主導権を握りたかった義仲は、何と皇位継承に口を出してきたのです。
安徳天皇が平家とともに都落ちしているために、新天皇が必要だと考えていたのは、後白河も同様ですが、全くの新参者が、次に天皇を誰にするかを決めるなどあり得ません。
義仲は、以仁王の息子である北陸宮を天皇にするように後白河に要請しましたが、後白河はこれを一蹴しています。
そして、高倉天皇の四の宮・尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させ、院政を再開させました。
平家がいなくなり、すっかり治安が悪くなっていた京の都は、義仲軍がやってきたことで、落ち着くかに思われましたが、全く良くなりません。
実は、義仲の軍勢は、北陸で力を持っていた様々な武士たちの混成軍であり、義仲がすべてを統制で来ていたわけではなかったのです。
そのため、町で乱暴狼藉を働くものもあり、京での義仲の評判は、あっという間に落ちてしまいました。
後白河は、義仲に平家追討を急がせました。
これは義仲自身も望んでいたことだったので、さっそく平家追討に出発しました。
ところが、義仲は、備中国水島(現・岡山県倉敷市)の戦いで、平重盛らに大敗し、わずか2ヶ月ほどで京に舞い戻ってきたのです。
後白河は、完全に義仲を見限り、密かに頼朝に使者を送り、上洛するように求めました。
頼朝の赦免、東国の支配権を与えるという寿永2年(1183年)十月宣旨が下されたのです。
頼朝は、弟の範頼と義経を大将に、軍を京へ向かわせました。
法住寺合戦
京へ戻り、後白河の頼朝への宣旨を聞いた義仲は激怒し、後白河に頼朝追討の命令を出すように迫ります。
後白河は、頑としてこれに応じません。
後白河は、院御所である法住寺殿の警護を固めます。
延暦寺・園城寺などの僧兵や浮浪民まで集め、堀を深く掘って、柵を立てます。
後白河は義仲に最後通告をします。
「今すぐに平家追討に向かえ。もしまだ京にとどまるなら、それは謀反だとみなす」
義仲は、帝に背くつもりはないと弁明したようですが、それは無視されます。
寿永2年11月19日
法住寺殿は義仲軍の襲撃を受けます。
義仲軍は、法住寺殿に火を放ち、出てきた僧兵や警固の武士を片っ端から切り伏せたのです。
武士だけでなく、院を守っていた貴族たちも容赦なく殺害され、五条河原には百数の首がさらされました。
庶民も後白河側として戦っています。
軍に向かって石を投げたり、逃げてきた武士を棒で打ったりする程度の事ですが、ここでも後白河が民に慕われていたことがわかります
ところで肝心の後白河法皇はどうなったかと言いますと…。
一旦は後鳥羽天皇とともに法住寺殿から逃げ出せたのですが、途中で義仲軍につかまってしまいました。
そして、またまた幽閉されたのです。(3回目の幽閉)
義仲の滅亡
法住寺合戦で勝利した義仲は、人事を一新し、朝廷を脅して、征夷大将軍にまでなりました。
また、後白河に頼朝追討の命を出させます。
これを知った頼朝は、6万の大軍を京に向かわせたのです。
すでに人心が離れてしまっている義仲軍は、京近郊にまでやってきた源義経の軍を防ぐために、宇治へ出兵。
寿永3年(1184年)1月20日
源範頼・義経軍と義仲軍が宇治川で合戦。
義仲軍は敗れ、木曽義仲は討ち死にしました。
義仲の短い天下は終わり、京には源頼朝の軍勢(範頼・義経軍)が入京してきました。
再び東国の武士が乱暴を働くのかと、戦々恐々としていた都人でしたが、頼朝の軍は非常に統制が取れていて、乱暴狼藉を働く者はほとんどいなかったそうです。
平家追討
さて、水島で義仲軍を破った平家は、西国の武士を集め、再び勢力を増していました。
後白河は、頼朝に平家追討を命じます。
範頼・義経軍は、西国で次々と平家を破っていきました。
でも、後白河法皇は、平家を滅亡させるつもりはなかったようです。
平家の滅亡とともに、彼らが持ち出していた三種の神器が失われては大変です。
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
三種の神器がないと、天皇の正式な即位ができなくなってしまいます。
出来れば、平家を残し、うまく付き合って(飼いならして)行きたかったのだと思われます。
でも平家は滅亡しました。
元歴2年(1185年)3月24日
壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。
安徳天皇は三種の神器(鏡と勾玉は回収)とともに海へ消えました。
後白河の好奇心
滅亡した平家の総帥・平宗盛と息子の清宗は、捕虜になって京に連行されています。
そののち、宗盛父子は斬首、その首は三条東洞院にさらされています。
後白河は、その首を見物に行っています。(やっぱり好奇心旺盛!)
平家滅亡から、4ヶ月後には、京都周辺で大地震が発生しました。
余震が続き、人心が不安になっていたこともあり、元号が「文治」に改められます。
文治元年(1185年)8月25日
東大寺の大仏開眼供養が行われました。
後白河は、公卿たちを連れて東大寺に行幸します。
そして、自ら大仏の開眼をするために、柱によじ登ったのです。
まだ余震が続いていた時で、もし柱に上っているときに地震が来て足場が崩れるようなことがあったら、命の危険があると反対されたのですが、後白河は、
「もし開眼の時に地震が起きて、命を失ったとしても後悔はない」
と言って、聞き入れなかったそうです。
好奇心がなした行動か、それとも人々の安寧を心から願うあまりの行動だったのか、それは後白河自身にしかわかりません。
でも破天荒な人ではありますね。
後白河と頼朝
平家が滅亡すると、頼朝は次第に後白河への圧力を強めてきました。
後白河は、頼朝をけん制するために、義経を利用します。
義経の憂鬱
義経は、平家滅亡の功労者であるにも関わらず、兄・頼朝から冷遇されていました。
それは、義経の勝手な行動に一つの原因があったのですが、義経としては納得できません。
後白河は、頼朝の代わりに義経を褒めて、京を守らせようとしました。
しかし義経は、頼朝への叛意が強く、後白河に頼朝追討の宣旨を迫りました。
(もし義経の機嫌を損ねたら、また義仲のように京で暴れるかもしれない)
危惧した後白河は、やむを得ず頼朝追討の命を出しました。
ところが義経が思ったように兵が集まらないうえに、頼朝の追及も迫ってきました。
文治元年11月3日
義経は、追われるように京を離れました。
後白河法皇の願い
11月5日
義経に代わるように頼朝の義父・北条時政の軍勢が京へ入り、都を制圧しました。
頼朝は、後白河法皇の政治力を抑えるため、朝廷の人事を一新し、義経追討の宣旨も出させています。
さらに、義経探索と全国の治安維持のため、「守護・地頭」の設置を認めさせました。
「もう貴族だけでは、世をまとめることはできない」
「武力を上手く使うことも必要だ」
後白河は、武家の政権をある程度認めつつ、天皇統治を続けようと考えていたのです。
後白河、頼朝と対面する
文治5年(1189年)閏4月30日
奥州で源義経が自害しました。
義経を匿っていた奥州藤原氏は頼朝によって滅ぼされます。
建久元年(1190年)11月7日
頼朝は、大軍を率いて上洛。
後白河法皇は、院御所である六条院で、初めて頼朝と対面しました。
それから1ヶ月余りの間、後白河と頼朝はたびたび対面し、話し合いを重ねます。
これからの政務・朝廷と頼朝との関係、政権の在り方などなど、多くの事を2人で話し合ったのではないでしょうか。
これ以降、朝廷とそれを守護する武家政権という構図が出来上がったのです。
ただ、この時頼朝が願った征夷大将軍の称号については、後白河は認めていません。
そんな簡単に武家を認めることはしない、後白河法皇としての矜持だったのかもしれません。
後白河法皇の最期
建久2年(1191年)
頼朝の支援により、法住寺殿と蓮華王院が再建されます。
平清盛によって創建され、源義仲によって焼失し、源頼朝によって復興したのです。
父に疎まれ、兄・崇徳上皇に恨まれ、信頼した近臣を殺され、何度も幽閉された後白河が心のよりどころとしていたであろう蓮華王院と法住寺殿の再興は後白河の念願でした。
後白河が法住寺殿へ移り住んだのは、12月16日。
そのすぐあと、25日ごろから体調を崩し始めました。
崇徳上皇の祟り
後白河の兄・崇徳上皇は、讃岐の地で天皇家を呪いながら死んでいます。
その恐ろしい呪いは、ことあるごとに後白河を悩ませていました。
異常なほどの熊野行幸も、崇徳上皇の祟りを鎮める目的もあったと考えられます。
後白河が被ってきた数々の試練もその背景には、崇徳上皇の呪いがあるのではと恐れていました。
崇徳上皇への恐れは、後白河だけでなく貴族たちも感じていたものです。
そして、今、後白河が重い病に苦しんでいるのも、やはり崇徳上皇の呪いだと考えていたらしいのです。
病に倒れてすぐ、後白河は、崇徳上皇を荼毘に付した白峰山(現・香川県坂出市)に廟を整えています。
そのかいあってか、建久3年(1192年)2月18日に、後鳥羽天皇がお見舞いに来た時には、とても期限が良く、後鳥羽天皇の笛に合わせ、今様を謡っています。
しかし、その時はせまってきていました。
後白河法皇 崩御
死期を悟った後白河は、自分の死後に無駄な争いが起こらないように、遺言をします。
法住寺殿・蓮華王院など主な領地は、天皇領として、そのほかの院領は自分の子女らに分けるという財産分与の遺言には、後白河とあまり関係の良くなかった貴族・九条兼実も感嘆しています。
建久3年3月13日
後白河は、念仏を唱え、穏やかに逝ったと言われています。
享年66歳。
天皇になどなるはずもなかった一人の皇子。
子どものように好奇心旺盛で、今様好きで、わがままで、でも気さくで、貴族の常識ではとらえられない珍しい人物。
彼を襲う様々な苦難を、不思議とうまく乗り越えて、生涯を全うした「治天の君」の崩御は、京の町衆にも悲しみをもたらしたことでしょう。
天皇は神とされていた長い時代の中で、こんな風に民に親しまれた帝は、おそらく後白河だけだと、私は思います。
現在、後白河法皇は 京都市東山区にある法住寺陵で静かに眠っています。
後白河法皇ゆかりの地 まとめ
記事の中でも出てきている後白河法皇ゆかりの京都をまとめておきました。
興味のある方は、後白河院めぐりをなさってみてください。
法住寺殿跡
後白河院御陵
蓮華王院三十三間堂(法住寺殿の鎮守寺)
京都三熊野…後白河法皇が熊野権現を勧請したり、整備した神社
・新熊野神社(法住寺殿の鎮守社)
・熊野若王子神社(後白河法皇熊野行幸の起点)
・熊野神社
新日吉神社(法住寺殿の鎮守社)
今熊野観音寺(後白河法皇頭痛平癒の観音)
長講堂
後白河院が院政の六条殿内に建てた持仏堂。
宝物として後白河法皇坐像がある
後白河天皇が登場する作品
長い長い後白河の生涯を読んでいただき、ありがとうございます。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、西田敏行さんが後白河天皇を演じます。
脚本が三谷幸喜さんだけに、お茶目で、でも底知れない、今までにない後白河を楽しみにしています。
最後に、後白河天皇に興味を持たれた方におすすめの作品を紹介します。
後白河法皇 平家を滅亡させた黒幕 河合敦
後白河天皇の生涯をわかりやすく解説している1冊です。
陰謀術数にたけた後白河法皇のイメージとはまた違った視点から書かれていて、読みやすくて面白い本ですが、伝承や伝説が元になった話もあるようなので、そのあたりは少し注意して読んでいただいた方がいいですね。
後白河院 井上靖
源頼朝に「日本国第一の大天狗」と評された老獪な後白河院の姿を、側近たちの口から語らせて浮かび上がらせています。
何を思って後白河院は、行動したのか。
昔のきれいな日本語で書かれた小説ですが、文語に不慣れな方には、ちょっとわかりにくいかもしれません。
史実に基づいた小説で、後白河院が生きた時代を知るのにもおすすめの本です。
後白河上皇 日本第一の大天狗 美川圭
後白河天皇の生涯をわかりやすい言葉で、書かれた評伝本です。
後白河天皇の全体像をつかむにはちょうど良い本だと思います。
梁塵秘抄ビギナーズクラッシックス 後白河院著 植木朝子編集
大の今様好きだった後白河法皇が編集した歌謡集「梁塵秘抄」
この本は「梁塵秘抄」の抜粋版です。
初心者でも楽しく読めるように、現代語訳と解説が載っています。
後白河法皇の素顔が垣間見えてくるようで興味深いですよ。
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