大河ドラマ『青天を衝け』では、主人公・渋沢栄一が大活躍しますが、彼の周囲の人々にも魅力的な人物がたくさんいます。
イケメン好きとしては、見逃せないのが、『青天を衝け』で岡田健史(今は水上恒司)さんが演じている尾高平九郎。
実際の平九郎もイケメンだったとか。
本当に現実もカッコ良いんだね。イケメン過ぎまする〜るる〜#渋沢平九郎#青天を衝け pic.twitter.com/2EtA84AyHB
— 大人の掟 (@ohyou_1006) May 23, 2021
もちろん顔だけではなく、中身も相当なイケメンです。
今回は、尾高平九郎の生きざまを追ってみましょう。
尾高平九郎の生い立ち
平九郎は、弘化4年(1847年)11月、武蔵国の下手計村(しもたばかむら)で生まれています。
父親は、名主・尾高勝五郎。
兄には、尾高惇忠・長七郎がおり、平九郎は三男です。
姉の千代は、のちに渋沢栄一の妻になります。
平九郎の少年期
尾高家は、菜種油などの販売や藍玉の製造販売、養蚕などを営んでいた豪農でした。
長男の惇忠は、家業の傍ら私塾を開き、学問を教えていました。
門弟には、渋沢栄一もいます。
また、次男の長七郎は「北武蔵の小天狗」と呼ばれるほどの剣客でした。
そんな環境で育った平九郎も、やはり幼少から学問に励み、10歳になるころには神道無念流を学び始めています。
平九郎 立派に育つ
兄・惇忠の残した言葉によると、平九郎は、背が高く腕力もあったそうで、武芸を学ぶのも向いていたようです。
次兄・長七郎も剣術に秀でていましたが、平九郎も18,9歳になるころには、師範並みの腕になっていたと言います。
また、色が白く、立ち居振る舞いもきりっとしたイケメンで、女性にもモテていたらしいです。
ですが、幼いころからの学問と武芸のおかげか、その中身は立派な攘夷志士でした。
平九郎、攘夷を志す
黒船来航以来、世の中が騒がしくなり、平九郎が住む下手計村でも、若者たちが寄ると世情を憂いていました。
水戸学信奉者だった兄の惇忠の教えを受け、すっかり攘夷志士になっていた平九郎や渋沢栄一らは、頻繁に尾高家へ集まるようになります。
文久3年
彼らは、世の中を変えるため、攘夷行動を起こそうとしました。
高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地の焼き討ちです。
平九郎もその仲間になる予定でしたが、この計画は長七郎の捨て身の説得で未遂に終わります。
「命を無駄に捨てるな」
尾高平九郎から渋沢平九郎へ
横浜焼き討ちを計画したために、追われる身となった渋沢栄一と従兄の渋沢喜作(成一郎)は、京へ出奔し、のちに一橋家の家臣になります。
このころの平九郎が何をしていたのかは、はっきりわかっていません。
惇忠とともに村に残り、この国のこれからを考えたり、剣術に励んだり、家業を手伝っていたのではないでしょうか。
とにかく平九郎、気持ちが宙ぶらりん。
一方渋沢栄一は、慶喜の将軍就任により、幕臣となります。
慶応3年(1867年)
渋沢栄一は、将軍の名代としてパリ万博に出席する徳川昭武(あきたけ:慶喜の弟)に随行することになります。
そこで栄一は、ふと気づきました。
「渋沢の跡取りがいない!」
浮かんだのが、学問にも剣術にも秀でた平九郎。
栄一は、妻・千代に、平九郎を養子に迎えたいという旨の手紙を書きました。
同年10月
渋沢栄一の見立養子(相続人)となった尾高改め渋沢平九郎は、江戸で生活することになります。
農民から一躍幕臣となった平九郎の心中は、武士としての覚悟と希望にあふれていたことでしょう。
しかし、徳川幕府はすでに風前の灯火でした。
大政奉還そして戊辰戦争へ
平九郎が幕臣になってまもなく、徳川慶喜は、大政奉還を宣言し、政権を朝廷に返しました。
徳川幕府は無くなり、形式上幕臣という地位は無くなります。
ですが、幕臣や徳川家に近い侍たちがすぐに気持ちを切り替えられるわけもありません。
12月、王政復古の大号令により薩長が中心となった新政府が成立した後も、旧幕臣らは納得しません。
明けて慶応4年(1868年)1月3日。
とうとう新政府勢力と旧幕府勢力が、衝突しました。
戊辰戦争の始まりです。
京の鳥羽・伏見方面で始まった戦は、新式の軍備を備えた新政府軍が、旧幕府軍を圧倒します。
その上新政府軍は、「錦の御旗」を掲げたのです。
旧幕府軍は、一気に朝敵になってしまいました。
江戸において、この報を知った平九郎は、フランスにいる栄一に手紙を出し、至急の帰国を促しています。
手紙の中で平九郎は、現在状況にあることを「幕臣の子として心痛の至り」であると言っています。
幕臣として、自分ができることは何か。
平九郎は、必死で考えていました。
彰義隊結成
徳川慶喜は、徳川家を守るため、また日本が外国に占領されないためには、戦をすることは避けるべきという考えから(諸説あり)、自ら謹慎します。
しかし、不満を持つ旧幕臣は少なくありませんでした。
その中には、平九郎のほか、渋沢栄一とともに幕臣となっていた渋沢成一郎や平九郎の兄惇忠もいました。
彼らは、同志とともに”彰義隊”を結成しました。
頭取は渋沢成一郎、副頭取は天野八郎、平九郎は大ニ青隊伍長を任されます。
江戸城無血開城の後、慶喜が水戸へ退くときには、彰義隊が護衛をしました。
その後も彰義隊は、上野寛永寺を拠点として、江戸に残り、新政府軍を迎え撃つ準備をしていました。
しかし、ここで成一郎と天野八郎の間で意見の相違が大きくなり、内部分裂をして今します。
江戸の町を戦火にさらすことを避けたい成一郎と、あくまで江戸で新政府軍を迎え撃つと考える天野八郎。
2人の激しい軋轢は、天野派の成一郎暗殺未遂まで起こしてしまいました。
振武軍結成
事ここに至って成一郎は、彰義隊を離脱し、新たに振武軍(しんぶぐん)を結成、本営を飯能(はんのう:現・埼玉県飯能)に置きました。
平九郎と惇忠も成一郎に従い、隊長に成一郎、中軍の将に惇忠、平九郎は右軍頭取に就任します。
平九郎は、各地に出張って情報を集めるなどの活動もしています。
慶応4年(1868年)5月15日未明。
大村益次郎が指揮する新政府軍が、寛永寺一帯に布陣していた彰義隊を包囲し、総攻撃を仕掛けました。(上野戦争)
緒戦では、五分の戦いをしていた彰義隊でしたが、圧倒的な人数の違いと最新鋭の武器アームストロング砲により、壊滅的な打撃を受けます。
わずか1日の出来事でした。
上野戦争の勃発を知った振武軍は、彰義隊の救援をしようとしたのですが、あまりに早い敗戦だったために、何もできませんでした。
かろうじて生き残った彰義隊の残党の一部は、振武軍に加わりました。
飯能戦争
慶応4年5月23日
彰義隊を討伐した新政府軍は、その勢いのままに飯能へ迫ってきます。
新政府軍3000人余りに対し、振武軍は半分の1500人ほど。
戦いが始まってわずか半日で、振武軍は壊滅しました。
平九郎は、まだ生きていました。
成一郎や惇忠とはぐれながらも、飯能から逃げ延び、顔振峠(かあぶりとおげ)へたどりつきます。
平九郎を見た峠の茶屋の女主人は、彼を旧幕府軍の者だと見抜き、新政府軍がいない秩父への道を勧めました。
平九郎は、百姓に化けるために、女主人に大刀を預け、峠を越えました。
しかし、なぜか秩父へ逃げなかった平四郎。
彼は、越生(おごせ)の黒山村へ向かいました。
平九郎の最期
黒山村へ入った平九郎は、新政府側についていた広島藩神機隊の隊士に見つかってしまいます。
敵は3人で銃も持っているのに対し、平九郎は小刀しか持っていません。
しかし、平九郎は退かなかった。
右肩を斬られ、足にも銃弾を受けながら、1人の腕を斬り落とし、ほかの敵にも傷を負わせます。
気魄あふれる平九郎の応戦に恐れをなしたのか、敵はいったん退きました。
残った平九郎の姿は、まさに満身創痍でした。
「もはやこれまで。生きて敵につかまるくらいなら…」
平九郎は、岩にもたれかかって自刃を遂げました。
傍らには、グミの木が生えており、その後は「平九郎グミ」と呼ばれるようになりました。
グミの真っ赤な実が、平九郎の流した血のようだったからと言われています。
渋沢平九郎 享年22歳
平九郎の首ははねられ、今市の宿(現・越生町)に晒されました。
村人が見た平九郎の雄姿
平九郎と新政府軍隊士との斬り合いは、黒山村の人々も見ていました。
首をはねられた平九郎の遺体は、村人たちによって全洞院というお寺に丁重に埋葬され、「脱走の勇士様(だっそさま)」と呼ばれて、長らく首から上の病に効く神様として祀られました。
幕臣・渋沢平九郎の壮絶な最期は、村人の心にも深く刻まれたのです。
帰ってきた平九郎
平九郎とはぐれた成一郎と惇忠は、旧幕府軍に合流し、各地で転戦し、函館戦争にも参戦しました。
明治2年(1869年)7月ごろ
惇忠は、飯能戦争の時、1人の脱走隊士が、黒山村で亡くなっていたという噂を聞きます。
黒山村に向かい、人々の話を聞いて回った惇忠は、その隊士が平九郎だと確信しました。
明治6年(1873年)8月
渋沢栄一は、側近に命じて、平九郎の首と胴体を、谷中にあった渋沢家墓地へ改葬しました。
(全洞院には、渋沢平九郎の墓石が建てられました)
平九郎が黒山村で自刃してから5年、平九郎はやっと帰ってきたのです。
「お帰り、平九郎」
終わりに
渋沢平九郎という人を、私は知りませんでした。
大河ドラマ『青天を衝け』で岡田健史さん(今は本名の水上恒司と改名されました)が演じているちょっと頼りなく、でもイケメンで、村の若い女性にモテモテという印象が初めの平九郎イメージでした。
調べてみると、次々に出てくる驚きの史実。
幕末という時代、何かに追い立てられるように生き急いだ若者は、平九郎だけではなかったでしょう。
平九郎自身の言葉は、ほとんど残っていないため、彼が何を考え、何を求めていたのかはわかりません。
ただ、命がけで大きな何かに向かって生きていたのは、確かです。
ドラマや本がきっかけで、今まで知らなかった歴史を知るのは、とても興味深く、楽しいことです。
私の記事を読んでくださったあなたも、歴史を知る面白さを感じていただけたら、うれしいです。
では、また、(@^^)/~
コメント