新選組沖田総司 病に力尽きた剣の天才は何を思う

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 沖田総司は、剣の天才と言われながら、労咳に侵され新選組から離れ、一人亡くなった悲運の若者と言われています。

新選組ファンの中でも土方歳三と並んで人気のある隊士です。

ドラマや映画、小説やコミックなど多くの作品にも描かれている沖田総司ですが、実際の彼はどんな人物だったのでしょうか。

今回は、沖田総司についていつも通り妄想(主にブルー囲みです)や私見を交えながら紹介してみたいと思います。

最後まで楽しくちょっと切ない気持ちになりながら、どうぞお読みくださいね。

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沖田総司の生涯

沖田総司の生年は、天保13年(1842年)とも15年(1844年)ともいわれ、詳しいことはわかっていません。

父は、陸奥国白川藩士江戸下屋敷詰めの足軽小頭の沖田勝次郎、母は日野に住んでいた千人同心の家の出身とも言われています。

父母は総司が幼い時に亡くなり、総司、幼名宗次郎は、母代わりのミツに育てられます。

本来なら長男である総司が家を継ぐところでしたが、まだ幼かったために長女のミツが林太郎を婿に迎え相続させています。

宗次郎、天然理心流道場「試衛館」に入門する

宗次郎は、9歳ごろに江戸市谷にあった天然理心流道場試衛館の内弟子となります

試衛館の道場主は近藤周助、近藤勇の養父です。

どのような経緯で試衛館に入門したのかはわかっていません。

ただ、宗次郎の母が千人同心の家であったとすると、同じく千人同心の家だった井上源三郎(当時すでに試衛館の門人でした)方面が関わっていたのか、もしくは同じ日野出身だった近藤勇との関わりかもしれませんね。

曲がりなりにも武家の嫡男であった宗次郎に剣術修行をさせるべく姉のミツが、母親関係の伝手を頼ったとも考えられます。

わずか9歳で実家を離れ、厳しい剣の道に入った宗次郎。

寂しさを紛らわすためもあり、宗次郎は懸命に修行に励みました。

剣の才能の片りんはすでに表れていたようで、宗次郎が12歳ごろには白川藩の剣術指南役に勝ったという話も残っています。

そんな宗次郎に厳しく稽古をつけ、時には温かく見守っていたのが、近藤勇でした。

宗次郎にとって10歳近く年の離れた近藤は、父のようでもあり、兄のようでもある存在だったのではないでしょうか。

また、同門で近藤の盟友でもある土方歳三も宗次郎にとっては、頼れる兄ともいえる存在だったと思います。

「宗次郎!」
「私はもう元服したんです。総司と呼んでください、土方さん」
土方がニヤリと笑って言った。
「近所のガキとじゃれあってる奴が、一人前の口をききやがる」
「じゃれているわけではありません。あの子たちと遊んであげていただけですよ。ほら、これ」
宗次郎、改め総司は、近所の子供に作ってやった竹トンボを土方の目の前に突き出した。
「そんなもん作ってる暇があったら源さんを手伝え」
「土方さんこそ、女の人の相手をしている暇があったら、少しは稽古を見てくださいよ」
「俺には俺の仕事があるんだ、うるせえ!」
そう言うと、土方は出て行った。
「トシにもいろいろあるんだよ」
野太い、しかし優しげな声で近藤が言う。
「でも最近は全然稽古に付き合ってくれないんですよ」
(そりゃあ、総司の方が強いからな。トシにも見栄ってもんがあるさ)
「近藤先生は、土方さんに甘すぎるんですよ。そんなんじゃ、私が困ります。もっと厳しくいってくださいよ」
「・・・。」
『勇さんは、総司に甘すぎるんだよ。そんなことだから、俺が面倒みなきゃねえんだ。もっと厳しく言ってくれよ』
近藤は、先日土方に言われた言葉を思い出した。
「先生、妙な顔をしてどうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
「とにかく、一度土方さんにびしっと言ってくださいね。私だって忙しいんです。もうこれ以上土方さんも面倒なんてみられませんからね」
近藤の将棋のような四角い顔が、クシャっと崩れる。
「お互いさまってことか」
「えっ?」
「総司、おめえはいいやつだな」
きょとんとしている総司を置いて、近藤は自室へ戻っていった。

近藤周助が隠居して、勇が道場主となると、その人柄に魅かれて多くの食客が居座るようになります。

同じ年代の藤堂平助や斎藤一、荒っぽいが気のいい原田左之助、江戸っ子で情に篤い永倉新八、思慮深く学識のある山南敬助、最年長で兄弟子の井上源三郎。

そして、土方歳三と近藤勇。

総司は、先は見えないけれどそれなりに充実した日々を個性豊かな仲間たちと過ごしていました。

そんな彼らを感じたいならこちらがおすすめです

総司 上洛する

文久2年末ごろ、試衛館の行方を左右する知らせが入ります。

清河八郎という浪士が幕府に働きかけて、浪士隊を結成するという話です。

浪士隊とは、近々上洛する将軍徳川家茂を警護するための隊でした。

詳細を聞いた近藤たちは、試衛館をあげて参加することにします。

もちろん、総司も共に。

しかし、浪士隊は、清河が自らの考え(攘夷)を現実化するために幕府を欺いて集めさせたものでした。

近藤たち試衛館メンバーとほか数名は、攘夷を実行すべく再び江戸へ戻る浪士隊に従わず、京に残りました

この残留メンバーが、のちの新選組につながります。

この時、総司がどう思っていたのかは、わかりません。

でもおそらく政治的な考えという者は、総司にはなかったと思います。

父のように尊敬する近藤と兄のように信頼している土方がいれば、総司は何がどうであれ関係なかったのかもしれません。

「難しいことはわかりません。私は、近藤先生と土方さんについていくだけです」

総司、新選組1番隊長になる

文久3年4月

京残留組は、京都守護職会津藩預壬生浪士組として、新たなスタートを切ります。

同年8月18日の政変を経て、新選組という名を拝命されました

京の町を巡回し、ひとたびことが起これば、命がけで職務を遂行する、そんな日々が続きます。

八木邸 新選組

そんな中で、総司は特に中心的な役割を担っています。

文久3年9月16日
筆頭局長ながら、傍若無人なふるまいから新選組の評判を落とし続けた芹沢鴨とその一派を暗殺。
元治元年(1864年)5月
大坂西町奉行与力内山彦次郎暗殺。

そして…。

池田屋事件勃発

元治元年(1864年)6月5日

祇園祭の宵山で賑わう八坂神社石段下の祇園会所には、新選組隊士が緊張した面持ちで集まっていました。

この日の早朝、新選組は、河原町四条上ルにあった古道具屋「枡屋」を探索、店主枡谷喜衛門(古高俊太郎)を捕縛しました

古高俊太郎邸跡 出展flicker

長州を中心とした過激浪士の動向を探っている中での捕縛です。

屯所では、土方を中心として古高への厳しい尋問が行われます。

激しい拷問の末、古高の自白した内容は以下のようなものだったと言われています。

強風の日を選んで御所に火を放ち、
騒動に紛れて中川宮(佐幕派公卿)を幽閉し、
京都守護職松平容保ら佐幕派の大名を殺害。
そして帝を長州へ連れ去る

新選組は、これを会津藩へ知らせます。

古高が捕縛されたことを知った浪士たちはすぐにでも対応を協議すると読んだ新選組は、浪士探索・捕縛の手はずを整えました。

そして、祇園会所。

近藤・土方以下幹部も緊張し、張り詰めた空気が漂う会所内。
総司は、相変わらずのほほんとした様子で、皆の顔を眺めていた。
「総司、少しは気を張らんか。隊士たちに示しがつかんぞ」
眉間にしわを寄せた土方が言った。
「今からそんなに気を張ったいたら、斬りあうまでに疲れますよ。土方さんがそんなに恐ろしい顔をしていたら、かえって隊士たちが余計な緊張をします。もっと、こう、肩の力を抜いて…」
「馬鹿野郎。新選組副長がオメエみてえに呑気に構えてられねえんだよ」
「大変ですね、副長さんも」
いつもと変わらない総司に、土方は内心驚いていた。
(剣の腕では総司と並ぶほどの永倉や斎藤でさえ、張り詰めた顔をしているというのに、総司はまるでこれから散歩にでも行くような顔をしてやがる。大した奴というか、ふてぶてしい奴だな、こいつは)
土方の思いを知ってか知らずか、総司は小さくあくびをした

この日、新選組隊士の半分近くが体調不良で出陣ができず、会所に出張ったのは、わずか30名ほどでした。

浪士たちがどこで会合を開くかもわからず、頼みの会津藩は約束の時間になっても現れません。

しびれを切らした近藤・土方は、隊を2つに分けて探索をします。

近藤以下、総司・永倉・藤堂ほか10名足らず。

ほかの隊士は土方が率い、井上源三郎が補助する形で(諸説あり)で探索をしました。

浪士たちは、近藤隊が探索していた池田屋に集合していました。

表口・裏口を固めさせ、屋内に踏み込むのは、近藤、総司、永倉、藤堂のわずか4名。

池田屋に集まっていた浪士は20数名。

ですが、近藤以下いずれも一騎当千の剣の達人です。

総司が得意とする三段突きも屋内では有利だったことでしょう。

初めのうちは、近藤たちが優勢でしたが、浪士たちが落ち着いてくると次第に劣勢に立たされます。

藤堂は、額を斬られ、永倉も親指の付け根を斬られます。

そして、総司は斬りあいの最中に喀血し、戦線離脱を余儀なくされました。

絶体絶命の時、土方隊が到着、再び勢いをつけた新選組は次々に浪士を捕縛。

恐ろしい計画を未然に防ぎました。

新選組は、この池田屋事件で一躍有名になったのです。

ちなみに、総司はこの時、労咳を患っていたために喀血したいうのが通説ですが、最近では、真夏の京で、それも狭い空間での乱闘のために今で言う熱中症になったのはないかという説が有力です

総司、悲しむ

池田屋事件以降も総司は、新選組一番隊長として、先頭を切って活躍を続けます。

新選組において、近藤・土方に従い、具体的な思想を持っている様子もなく、変わりなく隊務に励む総司でしたが、おそらくただ一度、総司の思いがあふれ出てしまった出来事があります。

試衛館以来のメンバーで、総司が慕っていた山南敬助の脱走です。

山南がなぜ新選組を脱走したのかは、未だはっきりわかっていません。

ですが、脱走以前から土方との確執があったと言われています。

総司にとって、兄のように慕っている土方と、同じように慕い敬愛していた山南が反目するのを見るのは、辛かったかもしれません。

「試衛館にいたときのように話せれば、今でも分かり合えるのに」

でも、山南は脱走しました。

追手として差し向けられたのは、総司でした。

「山南さん、どうか見つからないで」

そんな思いで馬を馳せた総司でしたが、山南は近江の草津であっけなく見つかりました。

隠れようと思えば、隠れられたはずなのに、なぜ山南は見つかったのでしょうか。

総司もおそらく知りたかったのでしょう。

草津からならすぐに屯所へ戻れるはずなのに、二人は草津で一泊しています。

すぐに帰るつもりだった山南を総司が引き留めた…と私は思っています。

最後の夜、総司と山南は何を話したのでしょうか。

翌日、屯所へ帰ると山南は切腹を言い渡されます。

介錯は、総司。

山南の希望だったと言われています。

旧前川邸 新選組

旧前川邸

総司、病に臥す

慶応3年(1867年)ごろから、総司の病(労咳)の症状が悪化してきます。

隊内の自室で療養することが多くなり、一番隊は二番隊長の永倉が率いるようになっていました。

静かに日々を送る総司。

総司の知らない間に新選組を囲む環境はどんどんと変わっていきました。

慶応3年10月14日
大政奉還により江戸幕府が終わる

11月18日 油小路事件
新選組参謀のち分隊、高台寺党を率いた伊東甲子太郎を暗殺

このころでしょうか、総司は、近藤の妾宅で療養するようになります。

12月9日 王政復古の大号令
12月16日 新選組伏見奉行所へ布陣
12月18日 近藤勇、墨染周辺で狙撃される(油小路事件残党による)

同日、同じく油小路事件の残党が、総司がいた近藤の妾宅を襲撃します。
しかし間一髪総司は、伏見奉行所へ向かっていたために難を逃れました。

総司は、右肩を狙撃された近藤とともに、新選組とも縁のある名医松本良順のいる大坂城へ移されました

労咳に侵され、剣も満足に持てなくなっていた総司だが、、土方に笑顔で言った。
「近藤さんのことはご心配なく。私がいますから」
「当たり前だ。総司、近藤さんを頼んだぞ」
土方は、すっかり細くなった総司の手をにぎった。

総司、江戸へ帰る

慶応4年1月3日

鳥羽伏見の戦いが始まりました。

緒戦では旧幕府側が勝っていましたが、次第に押され、討幕軍に錦の御旗が立つと、雪崩を打ったように次々と幕府を見限る藩が出てきました。

惨敗を重ね、大坂城へ入った旧幕府軍を待っていたのは、将軍徳川慶喜の逃亡という知らせでした。

大坂城で戦う覚悟をしていた家臣たちを置いて、将軍が逃げてしまったのです。

新選組は、残された幕臣たちとともに船で江戸へ帰りました。

なれない船旅に、総司は食べ物ものどを通らず、しんどいはずなのに、冗談を言っては周りの隊士たちを笑わせていたそうです。

「あまり笑うと咳が止まらなくなるよ」

そういいながら、明るい表情をする総司。

鳥羽伏見の戦いでは、試衛館の兄弟子井上源三郎が戦死していたのですが、悲しんだ姿は全く見せない総司。

なぜそんなに明るいのか、もっと憤ってもいいのに。

総司の姿を思うと、今でもそんな風に感じてしまいます。

江戸へ着くと、総司は近藤とともに療養所へ入りました。

近藤・土方との別れ

江戸へ入った新選組は、甲陽鎮撫隊と名を変え、今や官軍となった薩長軍を迎え撃つために甲府城(山梨県甲府)へ向かいます。

総司も従軍しようとしますが、ともに行軍することさえもままなりません。

ましてや戦いに耐えられるような身体ではありませんでした。

甲府へ向かう途中には、近藤や土方の故郷である多摩地方を通りました。

総司にとっても懐かしい多摩の風景。

日野宿本陣

総司は、多摩の地から、近藤たちを見送ります。

京ではいつも先陣を切り、だれよりも強く、だれからも頼りにされていた自分が残される辛さ、悲しさ。

それでも総司は、みんなを笑顔で送り出したのでしょう。

「私も後から行きますからね、近藤先生、土方さん、待っていてくださいよ」

その後総司は、松本良順の計らいで、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿われ、姉のミツが世話をしたと言います。

総司と近藤

甲府での戦いで惨敗を喫した新選組は、近藤・土方らと永倉・原田の間で意見の食い違いがあり、分裂します。

近藤・土方は、新選組を立て直し、流山(千葉県)へ向かいます。

流山へ向かう前でしょうか、近藤は総司を見舞っています。

いつもと変わらない笑顔を見せる総司に、近藤はどんな言葉をかけたのでしょう。

二人の最後の時間は、ひっそりと過ぎました。

流山へ行った近藤たち新選組は、すぐに官軍(新政府軍)に見つかります。

近藤は大久保大和という偽名を使い、新政府軍に出頭し、土方は主だった隊士を会津へ向かわせた後、近藤の助命嘆願に奔走しました。

総司と土方

近藤の助命嘆願をしていた土方は、自らも会津へ向かう前に総司のもとを訪れたと言われます。

人の気配を感じた総司は、目を開けた。
そばには男が一人。
(刺客か)
跳ね起きて刀を取ろうとした総司は、激しくせき込んだ。
「馬鹿野郎、そんな体で飛び起きる奴があるか」
「ゴホゴホッ、ひ、土方…さん?」
土方が総司の背中をさすっている。
ようやく落ち着いた総司は、不思議そうに土方を見ている。
「なんだ、幽霊にでもあったような顔をしやがって。俺ぁまだ生きてるぜ」
「そのようですね。でもその恰好…」
髷を落とし、豊かな黒髪をオールバックにした土方は、見慣れない洋装に身を包んでいた。
「これか…案外動きやすいぜ。おめぇの分も用意してあるぜ」
照れ隠しのような顔で土方が言った。
「さすが土方さんですね。すごくお似合いです」
「からかうな」
土方は視線をそらした。
京でともに戦った総司の背中があまりにも痩せて骨ばっていることが切なかった。
「俺は会津へ行く。会津でもう一戦するつもりだ」
「はい」
「総司」
「はい」
「おめぇも来るか」
「・・・・土方さんはいつまでたっても困った人ですね。私がいなきゃ駄目なんだから。もうそろそろしっかりしてもらわないと、おちおち休んでもいられない」
総司の透き通るような笑顔に土方は何も言えなくなった。
どれくらいの時が過ぎただろう。
「じゃあ、行くぜ」
「お気をつけて。近藤先生にもよろしくお伝えください」
そういうと、総司は布団を頭までかぶった。
土方の靴音が聞こえる。
だんだん遠くなる。
(もう会えない…)
「土方さん!」
総司は、刀をもって部屋を飛び出した。
どこにそんな力があったのか、総司は土方の後を追って庭先へ転げ落ちた。
「土方さん、土方さん、私も行く!」
「総司!」
駆け寄ってきた土方にしがみついて、総司は大声で泣いた。

土方は旧幕府軍に合流し、会津に向かいます。

土方が江戸を発って数日後、近藤勇は板橋で斬首されました。

慶応4年(1868年)4月25日のことでした。

総司、逝く

近藤が死んだことを総司は知らないままでした。

「近藤先生は、お元気でしょうか」

総司は時折姉のミツに問いかけました。

「土方さんは、殺されても死なない人ですから心配ないけれど、近藤先生は大丈夫だろうか。肩の傷は痛んでいないだろうか」

近藤が斬首されて約2ヶ月後の5月30日。

新選組一番隊隊長沖田総司は亡くなりました。

享年25歳(諸説あり)

最期の地は、千駄ヶ谷の植木屋という説と浅草今戸にあった松本良順の宿という説があります。

沖田総司終焉の地と言われる浅草今戸

総司の墓は、現在の東京都港区の専称寺にあります。(非公開)

慶応4年はうるう年で、4月と5月の間に閏4月がありました。ですので、沖田総司が亡くなったのは、近藤勇が亡くなって2ヶ月後となります。
ちなみに1年後の5月11日に土方歳三が戦死しています。
今の暦なら5月が近藤、6月が土方、7月が沖田の命日。
命日まで並んでますね。
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沖田総司を深掘りしてみる

新選組が登場するドラマや小説、コミックでは、剣術がとてつもなく強く、明るくて子供好きな美青年という姿が独り歩きをしている沖田総司。

実際はどんな人だったのでしょうか。

少しだけ、探ってみましょう。

沖田の容貌と性格

沖田総司は、近藤や土方のように写真が残っていません。

現在沖田総司の肖像画と言われているものは、姉のミツが自分の孫を「総司に似ている」といったために描かれたもので、生前の総司ではないそうです。

『新選組始末記』子母澤寛著の中には、屯所があった八木家の人たちの証言があります。

八木邸 新選組

壬生 八木邸

「背の高い肩の張り上がった色の青黒い人でした」とあります。

直前には土方の容貌について「役者のような男」「眼がぱっちりして引き締まった顔」などとあることと比べると、沖田は取り立てて美男ではなかったようですね。

でも愛嬌があってよく冗談を言い、近所の子供たちとも遊んでいたと言いますから、今でいえば、とても気さくで楽しいお兄ちゃんというところでしょうか。

男くさい新選組の中で、笑顔の可愛いさわやかな若者だったのだと思います。

ただ、のちに労咳に侵され、だんだんと悲壮感が漂ってきますが、それでも明るく振舞っていたと言いますから、芯はすごく強い人だったのだと思います。

沖田は幼いころに両親と死に別れ、親代わりの姉のもとを離れて、一人で試衛館の内弟子になっていますね。

剣術は好きだったのでしょうが、まだまだ甘えていたい年頃に、たった一人で他人の中で生活をするという少年期を過ごした沖田は、人一倍他人の気持ちにさとい人だったのではないでしょうか。

たとえ自分が辛い時でも、あえて明るく振舞い、他人に余計な気遣いをさせない。
それが習慣のように身についていたように思います。

本当の自分の思いは、心の奥底にしまい込んでいた、こんな性格は人によっては、ひねくれものに見られそうなものですが、沖田は、もともと素直で愛される性格を持っていたのでしょう。

だから愛嬌のある明るい青年として見られていたのかも…。

もちろん、これは、あくまで個人の見解ですけれど。

沖田の剣の腕

沖田総司の剣術の腕は、言うまでもなくとんでもなく強かったと考えられます。

試衛館の内弟子だったということで、沖田は天然理心流免許皆伝を受けていますが、実は北辰一刀流も免許皆伝なのです。

日本刀

試衛館時代も、竹刀をとれば、近藤や土方、山南、藤堂たちが沖田に子ども扱いされていたと伝わります。

また、沖田の剣術指導は近藤より厳しく、稽古では大声を出し、すぐに怒ると恐れられていたそうです。

愛嬌のある沖田はどこへやら、剣術に対してはまた違った顔が出てくるのですね。

沖田の得意技として有名な技は、三段突きです。

踏み込みの足音が一度しか聞こえず、相手が一突きされたと思っている間に三度突かれているくらいの早業だったそうです。

と書きながら、全く想像できていない運動音痴の私です。

近藤は、天然理心流を継ぐのは、沖田総司と決めていたらしい

慶応元年(1865年)11月、近藤勇は日野の佐藤彦五郎に手紙を出しています。

佐藤彦五郎は、土方の姉のぶの夫で新選組の後援者でした。

この手紙は近藤が、広島へ向かう前に書いたもので、広島へ出発するにあたり、新選組局長代行を土方歳三に、そして天然理心流の後継者を沖田総司に指名したと書いてあったそうです。

まるで遺言のような近藤の手紙。

沖田の剣への近藤の思いが伝わってきます。

沖田はいつ労咳になったのか

先にも書きましたが、池田屋事件で沖田が喀血したというのは、どうも事実ではなさそうです。

労咳(肺結核)で喀血するのは、末期の病状です。

喀血したときの余命は約半年くらいと言います。

ですので、池田屋事件の時にすでに労咳にかかっていたなら、その後の沖田の活躍ぶりはあり得ないことだと思います。

この時代の労咳は、治る見込みのない死病と恐れられていたくらいです。

池田屋事件から数年間も剣をふるい続けることは、到底不可能だと考えられるのです。

ではいつ労咳にかかったのか。

慶応3年(1867年)初めころまでは、沖田は隊務をこなしているようです。

ですが、同年11月の油小路事件には出動していません。

油小路事件は、もし沖田が健在なら、必ず出動するはずの重大な事件ですので、この時点では沖田は、剣が振るえる状態ではなかったと考えられます。

おそらく、この事件の前数か月の間に労咳を発症したのではないでしょうか。

もしそうなら、何年も労咳に苦しみながら、激務をこなしていたのではなかったということです。

総司の辛さがほんの少しだけ軽くなったようで、ほっとします。

沖田の恋

沖田に恋人はいたのでしょうか。

剣が強くて子供好きというイメージはありますが、女性関係についてはあまり語られることはありません。

でも沖田も普通の男性です。

島原にも遊びに行っていたようですし、恋の一つや二つ、あったのではないでしょうか。

よく知られているのは、医者の娘との恋です。

ドラマや小説でも描かれていますので、ご存じの方も多いと思います。

真実かどうかはわかりませんが、どうも悲恋に終わったみたいですよ。

試衛館時代に逆プロポーズされる

沖田が試衛館で剣術修行に励んでいたころ、一人の女性と出会っています。

情熱的なその女性は、沖田に求婚しますが、「剣の修行が第一」として断っています。

沖田の返事を聞いた女性は、懐剣でのどをついて死のうとしたそうです。

こ、怖い。

沖田青年、女性のことが怖くならなかっただろうか。

沖田氏縁者とは誰?
  • 新選組屯所のあった壬生にある光縁寺には、「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、沖田の恋人ではなかったかと言われています。

一説には、この女性は石井秩という未亡人ではないかと言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。

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沖田総司が登場する作品

沖田は新選組の中心人物ですので、新選組が登場する作品にはたいてい登場していますので、こちらでは沖田総司が主人公になっている作品を中心に紹介します。

沖田総司   大内美予子

沖田総司を描いた小説ならまずこの一冊です。

青年沖田総司のひょうひょうとした姿と天才剣士の顔。

そして病魔に侵された後の沖田。

土方との別れのシーンは何度読んでも泣いてしまいます。

後の沖田像を決定づけた作品と言えます。

沖田総司恋唄  広瀬仁紀

若かりしやんちゃ盛りの近藤と土方の喧嘩話から始まり、ぐっと引き込まれてしまう面白さです。

沖田を取り囲む土方や井上源三郎の優しいまなざしが感じられ、私はとても好きな小説です。

土方の信頼を受け、沖田を陰で見守る山崎烝もいいです。

総司 炎(ほむら)の如く  秋山香乃

秋山香乃さんの新選組三部作完結編です。

試衛館で剣術修行に励む若き沖田総司から、新選組隊士として京の町を行く沖田。

病に侵されたことで剣に凄味が出てくる様や最期の描き方もいいです。

悔しいことに秋山さんの本では、絶対に泣かされてしまうのですが、この本では、山南敬助脱走の章がそれでした。

ネタバレになりそうなので書きませんが、「なんでここでこうくる!」ぐっと心を刺されるんですよね。

あなたも泣いてください。

【中古】総司炎の如く /文藝春秋/秋山香乃(文庫)

天まであがれ!  木原敏江

完全なフィクションとして読めば、とてもいいコミックです。

新選組の史実を知っていると、自由すぎる設定に戸惑いますが、何しろ沖田さんが可愛い、土方さんが超イケメンです。

ただただこの本の世界に浸っていただきたいです。

そして…泣けます!

沖田総司 物語と史蹟をたずねて  童門冬二

沖田総司と新選組の史蹟を紹介しながら、沖田の生涯を描いています。

史実をなぞりながら、沖田の心情をつづっていますので、新選組をあまり知らない方にもわかりやすい本だと思います。

最後に

今回は、新選組の沖田総司について、お話ししました。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

土方歳三と同様、書きたいことがありすぎて、まあまあの長文になってしまいました。

でも、沖田さんのこと、少しはわかっていただけたと思います。

多分そのうち、また違った角度から沖田さんや土方さん(もちろんほかの新選組隊士も)のお話をすると思いますが、その時もどうぞ最後まで読んでくださいね。

お疲れさまでした!

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