今回紹介する新選組隊士は、十番隊隊長原田左之助です。
短気で荒っぽかった原田は、現在では土方ほどイケメンぶりが評判にはなっていないようですが、当時は結構有名だったようですよ。
原田左之助、いったいどんな人物なのでしょうか。
いつものように私見や妄想(?)を交えながら、紹介していきましょう。
左之助の生涯
原田左之助が生まれたのは、天保11年(1840年)
伊予松山藩(今の愛媛県松山市)の足軽原田長次の嫡男として誕生しました。
元服をした後の15歳ごろから松山藩の中間(ちゅうげん:武家の奉公人)をしていましたが、のちに出奔(逃げ出す)します。
死に損ね左之助
中間時代、左之助は上司にあたる武士と喧嘩をします。
左之助は、相手に
「腹を斬る作法も知らぬ下司(げす)め」
と罵られ、カッとなった左之助は、その場で腹を斬って見せたのです。
傷は浅く命に別状はなかったのですが、新選組では、その傷のいわれから、
”死に損ね左之助”
とあだ名がつけられていたと言います。
天気の良い日は、腹の傷を陽にさらして、「俺の腹は金物の味を知っているんだぜ」と自慢していたという話もあります。
後先考えずに、勢いで行動してしまう…、左之助はとんでもなく短気だったんですね。
左之助、試衛館の食客になる
この後左之助は、後の新選組隊士谷万太郎(三十郎とも)に種田流槍術を学び、免許皆伝を受けます。
そして松山藩を脱藩、近藤勇と出会うことになるのです。
左之助が、どのような経緯で試衛館を訪れたのかはわかっていません。
このころの脱藩浪人は、腕試しと称して様々な剣術道場の門をたたいたと言いますので、左之助もそんな感じだったのではないでしょうか。
試衛館には、すでに土方や沖田、井上源三郎、それに永倉新八、山南敬助、藤堂平助らがいたかもしれません。
左之助は、懐が大きく鷹揚な近藤の人柄に魅かれ、試衛館の空気にもなじみ、やがて彼らと同じように試衛館に居つくようになります。
いわゆる食客、居候ですね。
左之助、京へ上る
左之助は、試衛館でも腹の傷を見せながら、笑い飛ばしていたことでしょう。
試衛館の仲間との剣術修行の傍ら、羽目を外して近藤や土方、山南にお説教をされたかも。
お酒も好きだったようですので、仲の良かった永倉とも杯を交わし、時には世情を憂うこともあったのではないでしょうか。
そんな日々が数年続き…。
文久3年(1863年)早春、左之助は近藤ら試衛館のメンバーとともに浪士隊に参加し、上洛しました。
将軍家茂公の御上洛を警護するという大きな目的をもって京へやってきた彼らでしたが、浪士隊を率いる清河八郎がとんでもないちゃぶ台返しをするのです。
「将軍警護はただの名目、本当は帝(天皇)のために攘夷を実行する隊として結成したのだ!」
とかなんとか。
これに反発した近藤らは、浪士隊から離脱。
ともに離脱した芹沢鴨らとともに、京都守護職会津藩お預かりとなりました。
名は「壬生浪士組」
屯所が壬生村にある浪士たち…なんと単純な名称がついたものです。
でも左之助にとって、そんなことは大したことではありません。
「この京で、ひと旗上げてやろうじゃねえか」
桜が咲き始めた京の町で、左之助はゾクゾクしていた
左之助、新選組で活躍する
同年8月18日の政変(8・18の変)の後、壬生浪士組から名を改めた「新選組」で、左之助は十番隊隊長となり、常に第一線で活躍し続けます。
同月 長州の間者だった楠小十郎の斬殺
元治元年(1864年)5月20日 大坂西町奉行与力:内山彦次郎暗殺
同年6月5日 池田屋事件
同年7月18日 禁門の変
慶応2年(1866年)9月 三条制札事件
慶応3年(1867年)11月18日 油小路事件
池田屋事件では、土方隊に属して出動。金十両、別段金七両を受ける
三条制札事件…幕府の立てた制札がたびたび引き抜かれる事件が起こり、新選組が制札の警備を命じられる。左之助らの隊が警備していたところ、土佐藩士たちが制札を抜く現場を押さえ、数名を捕らえた。
左之助は会津藩より20両の恩賞を受けている
油小路事件では、伊東甲子太郎の遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せして襲い、剣の使い手服部武雄を殺害している。
慶応3年11月15日の坂本龍馬暗殺事件では、左之助が一時下手人として疑われます。
下手人が「こなくそ」という伊予訛りを発したらしいということが要因です。
実際は、新選組は関係なかったのですが、しばらくは新選組実行犯説が信じられていたようで、特に土佐藩は新選組に強い恨みを持っていました。
後に近藤が新政府軍につかまり、処罰されるときに近藤が武士として切腹することを許されず、斬首させれたのは、新選組に恨みを持っていた土佐藩の強い意向だったとも考えられます。
左之助、近藤らと袂を分かつ
慶応4年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いでも、左之助は勇猛果敢に戦っています。
ですが、戦況は悪く、薩長軍に錦の御旗が上がると、旧幕府軍はみるみるうちに敗色が濃くなっていきました。
大坂城で戦の指揮をするはずの15代将軍徳川慶喜が、夜中ひそかに江戸へ逃げかえってしまっては、もうどうすることもできません。
左之助ら新選組は、江戸へ下向。
5年もの間、命がけで守ってきた京に帰ることはありませんでした。
江戸にもどった新選組は、甲陽鎮部隊として、甲州勝沼で戦をしますが、あっけなく負けてしまいます。
この戦いの後で今後について主だった者たちで、話し合いをします。
その場で、近藤が左之助や永倉を家来扱いしたことに憤慨し、またこれからの戦い方などの考え方の違いから、左之助と永倉は、近藤らと袂を分かちます。
左之助は、永倉とともに靖共隊を結成しました。
左之助の最期
靖共隊は、江戸が無血開城された後も戦い続ける旧幕府軍と合流すべく、江戸を離れます。
しかし、左之助はなぜか隊を離れ、一人江戸へ戻ります。
江戸には、未だ薩長軍(官軍)に抵抗している彰義隊がいました。
左之助は、彰義隊に加わり、最後の戦に臨みます。
慶応4年5月15日。
江戸上野において、彰義隊と薩長軍との戦いが勃発しました。
しかし、最新兵器を持つ薩長軍になすすべもなく、彰義隊は全滅状態で敗れました。
開戦からわずか10時間の出来事でした。
左之助は、かろうじて生きていましたが、重傷を負い、その傷が癒えずに亡くなりました。
慶応4年5月17日、享年29歳
新選組で大暴れした快男児原田左之助は、新選組の誰もいないところで、一人で逝ってしまいました。
原田左之助はどんな人だった?
原田左之助と言えば、まずはお腹の傷。
そして、威勢が良くて短気で荒っぽい。
なのにイケメン。
新選組が活躍していたころも、島原ではけっこうモテていたようですよ。
でも実は以外に…。
愛妻家左之助
イケメンでモテモテだったはずの左之助。
でも近藤のように妾を何人も囲うことなく、新選組幹部としては珍しく、京の町人の娘マサと結婚しているのです。
それも非常な愛妻家だったそうです。
二人の間には、男の子も生まれ、非番の時には子供を抱っこして屯所へやってきたこともあるそうです。
男の子の名前は、徳川家茂から一文字取って「茂」
惜しみない愛情を注ぐ、子煩悩な父親でした。
しかし、鳥羽伏見の戦い直前の慶応3年12月。
新選組は、伏見奉行所に布陣することになります。
出発前日、左之助は200両もの大金をマサに渡し、子供のこと、そして当時二人目の子を妊娠中だったマサの体を気遣う言葉をかけ、あわただしく隊へ戻っていったということです。
これが左之助・マサ夫婦の永遠の別れとなりました。
マサは、左之助との別れの5日後、次男を生みましたが、生後間もなく亡くなってしまいます。
左之助に伝えたくても、どこにいるのかわかりません。
マサは、茂を立派に育てることだけを生きがいに必死で生きていきました。
でももし、左之助が生きていたら、まず一番にマサのところへ戻っていたはずです。
この馬賊伝説、私は信じていません。
マサは、昭和5年(1930年)まで生き、子母澤寛著の新選組三部作(新選組始末記・新選組遺問・新選組物語)で、左之助のことを語っています。
その最期は、茂の子供たちに見守られながら亡くなったといいます。
原田左之助が登場する作品
最後は、原田左之助が登場する作品を紹介します。
新選組十番組長 原田左之助 菊池明
原田左之助の生涯を追った本ですが、左之助に関する史料があまり多くないため、永倉などほかの隊士に関する文章も結構多いです。
原田左之助のことを知りたいなら、まず読んでおいて損はありません。
ごろんぼ左之助 池波正太郎「炎の武士」収録短編
「ごろんぼ」とは、伊予の言葉で、ごろつき・ならず者などの意味です。
原田左之助の波乱万丈の人生を描いていますが、上野戦争で死んだはずの原田が…。
原田が生きていた説の原点は、この小説かもと思わせるロマンあふれる本です。
同じく池波正太郎さんの「幕末新選組」は永倉新八が主人公ですが、原田と永倉の友情を思わせるシーンがどちらにも描かれていますので、読み比べるのも面白いです。
ちなみに「炎の武士」には、土方歳三が主人公の「色」という短編も収録されています。
薄桜鬼
薄桜鬼シリーズのキャラクターを一人ずつピックアップするシリーズの原田左之助。
ほかにもキャラクタードラマの原田左之助などなど、薄桜鬼の野性的なイケメン原田が思い切り堪能できる作品がいろいろ💛
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