松永久秀と言えば、将軍を暗殺し、主君を欺き、大仏の首を落とし、最期は信長に責められて、名器とともに爆死した、まさに戦国時代の梟雄(残酷で荒々しいことや人物)としての印象があります。
私もずっとそのようなイメージを持っていたのですが、現在(2020年)放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』を見ているうちに、
と思うようになってきたんです。
演じる吉田鋼太郎さんの影響も大きいですが、じっくり見ているとなんだか今までのイメージには当てはまらないような…。
そこで、改めて松永久秀について調べてみました。
戦国のややこしい人間関係がとても複雑なのですが、できるだけわかりやすくいつものように私見も入れながらお話してみます。
同じように思っている方も、そうでない方も、本当の松永久秀の姿を一緒に探ってみましょう。
不明な前半生から三好家での出世まで
久秀が生まれたのは、永正5年(1508年)ごろ。
出身地は、摂津国五百住(よすみ:現在の大阪府高槻市)とも山城国西岡(現在の京都市西京区)とも阿波国(徳島県)ともいわれ、詳細は不明です。
その後、天文2年(1533年)ごろに三好長慶に仕え始めるまでの久秀についても詳しくわかっていません。
とにかく、久秀が25歳ごろに、三好長慶に仕えることになりました。
そのころの三好氏は、長慶の父元長が、主君である室町幕府管領細川春元により殺害され、とても不安定な立場に置かれていました。
まだ12歳だった長慶の右筆(秘書)として仕えた久秀は、長慶の相談相手ともなり、身近な存在として、行政・軍事両面で長慶を支えていたようです。
三好家が京都を支配
天文18年(1549年)
三好長慶は、室町幕府第13代将軍足利義輝・細川晴元らを近江国(滋賀県)へ追放し、京都を支配するようになります。
久秀は、公家や寺社と三好氏との交渉の役割を任されました。
その後三好家の家宰(家長に代わり、家の仕事を取り仕切る人・執事)となり、弾正忠に任官します。
弾正=監察や治安維持を業務とする役所:弾正台の職員のこと
久秀は、主君長慶によく仕え、京の治安維持などの重責を担っていたのです。
相国寺の戦い
しばらくは京の町も平穏に過ぎますが、天文20年(1551年)将軍義輝の京への帰還を図り、細川晴元が攻め込んできます。
久秀らは、晴元軍と相国寺で戦い、撃破します。
しかしこの戦いで、相国寺の塔頭や伽藍が火災に遭ってしまいました。
その後も三好氏と晴元・義輝の争いはたびたび起こり、そのたびに、三好氏側が撃破しています。
北白川の戦い
永禄元年(1558年)
義輝・晴元が京へ進軍してくると、久秀は三好一門とともに迎え討ちます。
数か月後、長慶は義輝と和解し、義輝を帰京を許し、室町幕府の実権を握りました。
久秀も幕政に参画していきます。
将軍の信頼を受ける
三好氏は、京から畿内へと勢力を拡大し、本国である阿波国も支配し、大勢力を持つようになります。
永禄3年(1560年)
久秀は、長慶の命により、大和国(奈良県)において、興福寺などの寺社勢力や筒井順慶を攻め落とし、大和国を統一します。
その一方で久秀は、長慶の嫡男三好義興とともに将軍義輝の御供衆に任じられ、弾正少弼(しょうひつ)に任官しています。
同年11月には、大和国北西部の信貴山城に移り、居城としました。
翌永禄4年には、従四位下の官位を与えられ、義輝から桐紋と塗輿の使用を許されます。
このことから、久秀は三好家の家臣でありながら、その身分は主君長慶や義興と同じとみなされていたようです。
幕府や朝廷から特に重要な存在として認められていたのです。
将軍義輝との関係
義輝と長慶が争っていた時には、久秀は義輝を
「悪だくみをしてわが主君長慶との約束を何度も破って、細川晴元と結託しているので、京を追放されるのは当然だ」
などと責めていました。
しかし、義輝が帰京してからは、次第にその関係も改善され、義輝の御供衆として多くの仕事をこなしています。
その功により、義輝の久秀への信頼は高いものだったと考えられます。
久秀の働きにより、この時期の室町幕府と三好氏の関係は表面上は良好だったと言えるでしょう。
三好氏の重臣として、また義輝の御供衆として、滞りなく仕事をこなせる久秀は、器用で、機転が利き、非常に能力の高い人物だったことは間違いありませんね。
畿内最大の実力者になる
将軍義輝との抗争がおさまり、政情が安定すると、三好氏の畿内での勢力はどんどん拡大していきます。
そんな中、久秀は、長慶より大和一国の支配を任され、その拠点として多聞山城を築城しています。
久秀の権勢は絶頂期を迎え、国持大名と同じ地位を得るようになりました。
この後、久秀がどんどん出世するのに対し、主家である三好氏では不幸が続くことになります。
三好家の不運
永禄4年(1561年) 長慶の弟十河一存(ぞごうかずまさ)が病死
永禄5年(1562年) 長慶の弟三好実休(じっきゅう)が戦死
永禄6年(1563年) 義興が病死
永禄7年(1564年) 長慶の弟安宅冬康(あたぎふゆやす)が長安の命で殺される
一連の不幸により、三好氏における実力者は久秀に並ぶ者はいなくなります。
このことから、三好氏一族を久秀が暗殺もしくは謀殺したのではないかという説がありますが、確たる証拠はなく、憶測の域を超えません。
重なる不幸に気概を失ったのか、長慶自身も病に侵され、永禄7年7月、久秀の主君三好長慶が43歳の若さで病死してしまいました。
永禄の変
三好氏は長慶の甥にあたる三好義継が継承、久秀は三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通の三好三人衆らとともに三好氏を支えます。
しかし、義継と三好三人衆は、大事件を起こしてしまうのです。
永禄8年(1565年)5月19日。
義継と三好三人衆、それに久秀の嫡子久通が約1万の兵を率いて上洛、義輝の住居である二条御所を襲撃したのです。
将軍側の抵抗は激しく、義輝の近臣たちの奮闘により、三好勢数十人が討ち取られています。
義輝自身も剣豪将軍ともいわれるほどの剣の達人です。
斬りかかる敵を次々に討ち倒す義輝に業を煮やした三好側は、義輝の周囲にふすまを立てかけ四方から槍を刺したとも伝えられています。
三好衆は、義輝の子を身ごもっていたとされる侍女や義輝の弟まで殺害しています。
実はこの場面、先日の『麒麟がくる』で見たところです。
奮戦する義輝を襲い、必死で戦う義輝を数に任せて障子で囲い、槍を突き刺す…。
向井理さん演じる義輝が、発した最期の無念のうなりが切なすぎました。
長慶の死を契機として、義輝が将軍の権力を強めようとしたことに三好が危機を感じたために起こしたこの事件が、世に言う「永禄の変」です。
この事件の首謀者が久秀だという説があります。
ですが、この時久秀は大和国に滞在していて、襲撃には関与していません。
ただ、嫡男が参加していることから、ある程度の関係はあったとも考えられます。
三好三人衆と久秀の対立
義輝を殺害した三人衆は、義輝の甥にあたる義栄の擁立を企みます。
義輝には、殺害された弟以外にもう一人、大和の興福寺の僧となっていた覚慶という弟がいました。
久秀は、覚慶を保護し、彼を将軍に擁立することを考えていたようです。
これにより、久秀と三好三人衆は対立し、三好家は内紛状態になっていきます。
三人衆は、以前久秀に攻められ勢力を削られていた筒井順慶や寺社勢力と手を結び、多聞山城の久秀を攻撃しました。
兵力では劣る久秀でしたが、堅固な城塞として知られていた多聞山城は2年もの間持ちこたえます。
永禄10年(1567年)
三好三人衆のもとから義継が出奔、久秀のもとへやってきました。
このことから三好氏の人たちは、久秀は三好家当主に対しては忠実だとみていたようです。
実際久秀はこれ以後、長慶に対していたように義継に忠実に仕えています。
義継が久秀を頼ったことで、久秀は若干ですが勢力を取り戻しました。
東大寺大仏殿の戦い
三好三人衆は、再び大和への襲撃を始めます。
筒井順慶とともに東大寺に陣を張った三人衆に対し、久秀も出陣、東大寺周辺で戦闘がおこりました。
しかし、成り上がり者の久秀に味方は少なく、相変わらず劣勢を強いられています。そして両軍の激しい戦いの中、東大寺の大仏殿が焼け落ち、大仏の首も落ちてしまいました。
このために、久秀は東大寺の大仏殿を焼失させた仏敵という汚名を着せられ、のちの久秀悪行の1つとして数えられることになるのです。
久秀の劣勢はその後も続き、翌永禄11年(1568年)には信貴山城が三人衆に落とされてしまいます。
多聞山城に籠城していた久秀は、この状況を打開させるため、以前から織田信長と外交を始めていました。
久秀は、すでに美濃の征服にも成功しつつあり、勢いのある信長に上洛を要請し、三人衆を撃破してもらおうと考えていました。
それに対し、信長は大和国の国衆に久秀への助力を伝えています。
信長と久秀
信長は美濃を制圧すると上洛を開始します。
途中上洛に抵抗する南近江の六角氏をあっという間に撃退したのを見ると、京を抑えていた三好三人衆は、撤退していきました。
永禄11年9月、信長は上洛。
間もなく、還俗した覚慶改め足利義昭が15代将軍となりました。
久秀は、信長に高名な茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を献上し、臣従を申し出ました。
信長はこれを受け入れ、久秀に大和国一国の支配を認めました。
信長にとって畿内の勢力に通じた久秀は、勢力を広げるのに好都合、久秀にとっては、信長の勢いのもと三好三人衆や筒井順慶、寺社勢力に対して優位に立てるというWin-Winの関係だっだんですね
同時に三好義継も信長に臣従し、久秀とともに義昭の御供衆に任じられています。
久秀は、義輝・長慶に対していたように、義昭・信長に仕え、同じように忠実に働いています。
久秀、信長を救う
信長は、義昭を奉じ、畿内周辺での勢力を拡大していきました。
そして越前(福井県)の朝倉義景にも上洛を促しますが、義景はそれを拒否。
元亀元年(1570年)、信長は朝倉義景討伐のため、越前へ攻め込みます。
久秀も義継とともに参加します。
しかし、信長の妹婿浅井長政が裏切ったため、信長軍は撤退、明智光秀と豊臣秀吉に殿(しんがり)を任せ、わずか10人ほどの共とともに京に向かい、逃走しました。
その際、久秀は信長を殺害しようとしていた近江国朽木谷領主朽木元網を説得し、味方につけています。
信長が無事逃げおおせた功労者の一人となったのです。
また、信長が三好三人衆との和睦を決定したときも、久秀は自分の娘を信長の養女としたうえで人質に出すことで和睦をまとめています。
このように久秀は信長に対して忠実な働きをしていました。
信長との対決
しかし、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺など反信長勢力が、次第に包囲網を固め、信長が苦境に陥ってくると、久秀はひそかに義昭と通じ、次第に対決姿勢をとっていきます。
これを主君への裏切りと見る人もいますが、久秀にとって信長の臣となったのは、わずか2,3年前のこと。
それもお互いに利を見てのことです。
久秀にとって、信長とともに動くことが不利益になると思えば、離れるというのは当然だったのかもしれません。
元亀3年(1572年)
久秀は、義継、三好三人衆らと組み、信長に敵対します。
ところが翌年、武田信玄が病死し、武田氏は撤退。
浅井・朝倉や石山本願寺を後ろ盾に挙兵した足利義昭も信長に敗れ、京を追放されました。
浅井・朝倉も相次いで信長に討たれます。
そしてとうとう三好義継も、信長軍に攻められ自害。
三好三人衆も信長に敗れます。
三好氏本家は、ここに滅亡しました。
織田軍は、久秀の多聞山城にも攻めかけます。
久秀は、多聞山城を差し出し降伏しました。
翌天正2年(1574年)
久秀は、岐阜に行き、信長に謁見して再度臣従しますが、領地の大半は没収されました。
久秀の叛旗
久秀は、信長の武将佐久間信盛の与力として、石山本願寺合戦にも参加しましたが、目立った動きはありません。
長年仕えてきた三好家が滅亡し、大和国における権力も亡くなった久秀にとって、唯一の目標は、信長への復讐だけとなっていました。
そして天正5年(1577年)
上杉謙信、毛利輝元が信長に敵対するようになり、石山本願寺とともに再び信長包囲網が敷かれます。
久秀は、勝手に本願寺攻めから離脱、嫡子久通とともに信貴山城に立てこもります。
信長は、使者を派遣し、謀反の理由を問いただしています。
理由の如何によっては、謀反を許そうという信長にしては気の長い対応です。
この時期の信長は、上杉や本願寺に対抗するために兵力を久秀攻略に割くことが難しく、このような懐柔策をとったようです。
久秀は、信長の言葉を拒絶します。
それに怒った信長は、嫡男信忠を総大将とし、4万という大軍を送り込み、信貴山城を包囲します。
8千の兵がこもる信貴山城は、しかし防備が堅く、容易に落城しません。
逆に、久秀軍の兵200人余りが討って出て、織田軍に数百人という死傷者という損害を与えています。
武将としても有能だったと言われている久秀の指揮官としての力量がわかります。
久秀の最期
しかし、多勢に無勢。
久秀は次第に追い詰められます。
打つ手はもうなしと覚悟を決めた久秀は、嫡男久通とともに切腹し、城に火を放たせました。
久秀が所有していた名器平蜘蛛の茶釜も打ち砕かれ、炎上する城と運命を共にしました。
享年68歳(70歳とも)
久秀の首は信長のもとへ、遺体は攻撃に参加していた筒井順慶が達磨寺に葬りました。
松永久秀の本当の姿とは?
久秀の生涯を振り返ってみましたが、あなたはどんな印象を持ちましたか?
思っていたほどの悪人ではないと思いませんか?
三好氏に仕え、出世欲は強かったかもしれませんが、裏切りという裏切りはなく、結局最後も三好氏のために信長に復讐しようとしていたようにも考えられます。
信長に対しては、確かに裏切り行為というものはあります。
しかし、もともとお互いに利益があっての同盟、臣従関係です。
三好氏に対するような忠義の心はなかったのだと考えられます。
後の世に伝わるのは、たいてい勝者の歴史です。
松永久秀も敗者となったばかりに、とんでもなく極悪な武将として歴史に名を刻むことになってしまったのかもしれません。
久秀以外にも、一般的に知られているイメージとは全然違う人物も多いかも。
また調べてみますね。
松永久秀が登場する作品
最後はいつものように、松永久秀が登場する作品を紹介して終わります。
松永弾正久秀 黒部亨
悪人のレッテルを張られた松永弾正の評価を問い直す波乱の長編小説です。
なんの後ろ盾もない彼が、おのれの才覚と努力でのし上がっていく様を生き生きと描いています。
久秀という人間の裏も表も見せながら、その魅力を十分に楽しめる一冊です。
じんかん 今村翔吾
”じんかん”とは”人間”のことで、人の間:人の世を意味します。
謎の多い久秀ならでは、自由な創造で縦横無尽に行動する久秀が面白いです。
史実を織り交ぜながら独自の解釈で書かれた痛快な小説で、一気読みした後も爽快感が残るような小説です。
弾正星 花村萬月
久秀が20代のころよりその死までを義兄弟丹野蘭十郎の目から描いた作品です。
織田信長も恐れた稀代の梟雄松永久秀が権謀術数を駆使して成り上がっていくさまが描かれます。
従来の悪人イメージとは一味違い、ある意味痛快な悪人久秀から目が離せません。
「この時代小説がすごい! 2015年版」では4位に、週刊朝日の「決定! 歴史・時代小説ベスト10」で3位にランクインした読み応えのある一冊です。
伊賀忍法帖 山田風太郎
戦国の梟雄松永弾正は、主君筋の御台右京太夫に横恋慕し、その欲望を叶えるために伊賀忍者笛吹丈太郎の妻が犠牲になります。
復讐を誓う丈太郎と弾正配下の根来七鴉天狗の激闘。
東大寺大仏殿焼失の史実も混ぜながら幻術と忍法の息も切らさぬ戦闘場面にのめりこんでしまいます。
山田風太郎氏の痛快伝奇エンターテインメントは安定の面白さ!
1982年公開の映画では、真田広之さん(笛吹丈太郎)主演、中尾彬さんが松永弾正を怪演しています。
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