2020年の大河ドラマは「麒麟がくる」明智光秀の登場です。
明智光秀と言えば、まず初めに思い浮かぶのは、「本能寺の変」ですね。
本能寺にいた主君織田信長を討った謀反人という印象が強い人物です。
でも大河ドラマの主人公に選ばれたことで、ひそかに明智光秀ブームも起こり、改めて明智光秀という人を見直してみようという人が増えてきました。
そこで今回は、明智光秀の生涯や人物像について、あまり歴史に詳しくない人にもわかりやすく逸話も交えながら紹介します。
ぜひ最後まで読んでいただき、来たる2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の予習をしましょうね。
明智光秀の生涯を年表で紹介
明智光秀の前半生はあまり詳しくわかっていません。
誕生年だけでも、1516年・1526年・1528年・1540年の4つの説があるくらいです。
こちらでは、通説とされる1528年誕生説をとります。
光秀の生い立ち
1528年
光秀は、美濃の国(現在の岐阜県南部地域)の斎藤道三の家臣だった名門の土岐氏の一族、明智氏の子として生まれました。
父は、明智光綱(みつつな)母は、お牧の方です。
光秀は、幼い時から頭が良くて、真面目だったと言われています。
1535年
父が亡くなったために光秀が家督を相続。父の弟明智城主の明智光安(みつやす)が後見となります。
1556年
斎藤道三とその子義龍(よしたつ)の争いがおこり、道三についていた光秀は、義龍に攻撃され、一族はほとんど滅ぼされ、光秀も城を追われ、浪人になってしまいました。
その後光秀は、仕官先を探して各地を放浪しながら、鉄砲術や和歌を学びます。
それが功を奏し、この後越前の国(福井県嶺北)朝倉義景(よしかげ)に召し抱えられます。
光秀、足利義昭と出会う
1565年
13代将軍足利義輝(よしてる)が松永久秀(ひさひで)と三好三人衆によって暗殺されます(永禄の変)
義輝の弟義昭は、暗殺を恐れて京都から脱出し、朝倉義景を頼ってきました。
そこで、義昭は義景の側近としての光秀を知ります。
義昭は、将軍家復興のために義景に上洛(京へ上ること)を迫りますが、なかなか応じません。
業を煮やした義昭は、美濃の斎藤家を倒し、次第に勢力を伸ばし始めていた尾張の織田信長に上洛を要請します。
1568年
光秀が仲介役となり、織田信長を従えて無事上洛を果たした義昭は、第15代将軍となります。
これが明智光秀の歴史上に表れた最初の大きな功績と言われています。
これ以後光秀は、義昭と信長両方の家臣となりました。
1570年
義昭は、信長に利用されるための将軍だと知り、信長との関係が悪化していきます。
間に立たされた光秀の苦悩が続きます。
1571年
織田信長の命により、比叡山延暦寺焼き討ちを実行します。
この功績により、光秀は近江の国に城を気付くことが許され、琵琶湖畔に坂本城を築城し、居城としました。
【坂本城址(滋賀県)】
比叡山焼き討ちを終えた織田信長は比叡山と琵琶湖の支配権を強めるため、1571年に明智光秀に命じ坂本城を築城します。城主は焼き討ちで武功をあげた光秀が任ぜられ、大天守と小天守をもつ豪華絢爛な様子から宣教師フロイスは「安土城に次ぐ城」と記しました。#京都滋賀県境旅 pic.twitter.com/4YADoO2pEa— 旅に出よう (@6Twe9s1Z9CuUxSY) October 29, 2024
この頃信長は、まだ秀吉や他の家臣に城を持つことを許していません。
新参者だった光秀がいち早く城を持つことができたのは、いかに信長に重宝され、貢献していたのかがよくわかりますね。
坂本城は、大天守と小天守を持つ豪壮な城で、ルイス・フロイスの『フロイス日本史』の中で「信長の安土城に次ぐ名城」だと言っています。
光秀は坂本の領内を善く治め、領民にも慕われたという事です。
1573年
足利義昭が、信長を討つために挙兵します。
この時、光秀は織田軍として戦うことを決め、義昭との関係を終わらせました。
義昭と信長の戦いは、義昭側の最大の見方だった武田信玄が病死したことで、ほぼ決着し、室町幕府は終わりを告げます。
1575年
丹波方面の攻略を命じられますが、丹波国の波多野秀治の裏切りに合い、敗退します。
1576年
光秀の最愛の妻、正室の煕子(ひろこ)が病死します。
戦続きで心労が重なって病に伏した光秀を献身的に介抱してきたための疲労が大きかったと言われています。
夫婦仲は極めて良かったと言われていますので、光秀の悲しみはさぞ大きかったでしょう。
1577年
松永久秀の居城信貴山城を攻め落とします。
1578年
丹波国の攻略のため、亀山城を築城します。
1579年
波多野秀治らを攻め落とします。
この功績により、信長から丹波の国(亀岡市・福知山市)29万石を与えられます。
1581年
京都御馬揃え(軍事パレード)が執り行われます。
光秀は、運営を任されました。
本能寺の変へ
1582年
信長の命により、安土城での徳川家康接待役を勤めます。
しかし、接待の不備を信長に激しく叱責されました。
このころから、光秀の心中に信長への叛意が沸き上がっていたとの説もあります。
毛利氏征伐に向かっていた豊臣秀吉からの出馬要請に応じ、信長が大軍の派遣を決定。
光秀も出馬命令を受け、亀山城にて出陣準備をします。
同年5月24日(28日とも)愛宕神社にて、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」を開きます。
これは、光秀が主宰した連歌会で、そのとき光秀が詠んだ上の句がこちらです。
『ときは今 あめが下しる 五月かな』
”とき”とは、美濃の土岐氏出身の明智、
”あめが下しる”は天下を知る(支配する)
「土岐氏(明智)が天下を支配する五月となった」という意味になります。
ただし、この句は、のちに一部が書き替えられたという説もあります。
そして、1582年6月2日。
京都本能寺に滞在していた織田信長を襲撃、自害させました。
光秀は、娘婿の細川忠興(ただおき)とその父幽斎(ゆうさい)や親しく交わっていた筒井順慶(つついじゅんけい)などに味方するように要請する文書を出していましたが、請けいられずに孤立していきます。
信長の自害を知った秀吉は、それを隠したまま毛利と和睦をすると、備中高松(岡山県岡山市)からわずか10日ほどで京に帰ってきました(中国大返し)。
秀吉と光秀は、京都と大阪の境にある山崎で戦いますが、明智軍はあえなく敗戦します。
わずかな供と敗走途中に、伏見小栗栖の竹やぶで、百姓たち落人狩りに遭い、光秀は自害しました。
本能寺の変から11日後のことでした。
光秀が信長を倒した本当の理由は、いまだにはっきりとしていません。
愛宕百韻が一つのヒントではないかとも言われていますが、おそらくずっと謎のまま、真実は光秀のみが知っているのでしょうか。
いえ、光秀にもわからないのかも。
1582年6月13日 明智光秀死す 享年55歳
明智光秀の生涯を、主な出来事を中心に紹介しました。
なんとなく明智光秀のことがわかっていただけたと思いますので、次は、逸話や今に伝わる光秀の言葉などから、明智光秀の人となりを探ってみます。
明智光秀はこんな人だったんじゃないかな?
まずは、先ほども出てきました『フロイス日本史』の中に書かれている光秀に対する評価をいくつか紹介します。
明智光秀の評判 その1
・裏切りや密会を好む
・己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた
・築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主
・主君とその恩恵を利することをわきまえていた
・自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた
・誰にもまして、絶えず信長に贈与することを怠らず、その信愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心掛け
・刑を科するに残酷
・独裁的でもあった
・えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた
・殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快くおもわれていなかった
凄く頭が切れる人だけど、信長に寵愛されるための様々な手段を使う姑息な性格だと言っています。
光秀は、信長の家来の中では新参者にもかかわらず、出世頭になったことで、周りからの嫉妬もあったのではないでしょうか。
このような言葉を残している光秀だったのに、なぜ本能寺の変を起こすことになったのでしょうか。
人の心に永遠はないという事なのでしょうか。
さて、信長の家臣たちライバルの中では、あまり評判が良くないですが、こんな逸話もあります。
明智光秀の評判 その2
志賀郡で一向一揆が起こった際、それを抑えるために戦った明智の家臣18人が戦死しました。
光秀はその戦死者を弔うために供養米を西教寺に寄進しています。滋賀県大津市坂本にある西教寺には、光秀の寄進状が残っています。
このような家臣への心遣いは、ほかの武将には、ほとんど例がありません。
また、亀岡市のように光秀が支配していた地域では、今も明智光秀の遺徳を偲ぶところが多くあります。
亀岡市では、毎年5月3日、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われていますし、福知山には、明智光秀を神として祀る御霊神社や、光秀をたたえる歌詞が入った「福知山音頭」が伝わっています。
亀岡光秀まつり、モノノフだからすごく歓迎してもらえて嬉しい。
けど何よりまつり自体が地域で愛着を持たれているのが素敵だ。#亀岡光秀まつり #亀岡春の一大事 pic.twitter.com/8TeP8S661H— WATARU (@wataru09666) May 3, 2024
(2020年の明智光秀主人公の大河ドラマ実現も、亀岡市の働きかけが大きかったという事です)
それは、光秀が領民を愛し、善政を行っていた証なのでしょう。
明智光秀の評判 その3
光秀は非常な愛妻家として知られ、正室の煕子が存命の間は、側室を置かなかったと言われています。
これは、戦国武将の中では珍しいことです。
光秀と煕子の愛情深い夫婦関係は、こんな逸話からもわかります。
光秀と煕子の婚約が成立した後、煕子が疱瘡(天然痘)を患い、顔にあばた(ぶつぶつとした疱瘡のあと)が残ってしまいました。
これを恥じた煕子の父親は、煕子の代わりに瓜二つの妹を光秀の妻に差し出しますが、光秀は、それを見抜き、煕子との祝言をあげました。
「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」by光秀
また、こんな逸話も。
明智氏が斉藤義龍に攻められ浪人になった後、困窮する生活の中で光秀が連歌会を催すお金もありませんでした。
連歌会は、武将にとってはただの遊びではなく、仕官するためや出世するための糸口にもなる大事な会でした。
煕子は、自分の黒髪を売り、光秀は無事連歌会を催すことができました。
まさに内助の功ですね。
番外編:光秀は自害していなかった⁉
京都山科の小栗栖で自害したはずの光秀が、実は密かに生き延びていたという伝説めいた話があります。
徳川家康のブレーンとして名高い南光坊天海が、生き延びていた光秀だという話がまことしやかに伝わっているのです。
光秀=天海説を裏付ける証拠もいくつか出ているという事ですが、真偽のほどはわかりません。
でも、興味深い話ですよね。
人間というのは誰でも、良い評判と悪い評判があります。
それがすべて真実ではないとしても、あたらずとも遠からずなのではないでしょうか。
遠い歴史の奥にいた明智光秀が、少し人間的に見えてきたでしょうか?
では、人間光秀に触れあえるかもしれない、ゆかりの場所を紹介しましょう。
明智光秀ゆかりの場所
こちらでは、京都周辺の光秀ゆかりの場所を紹介しますね。
1.本能寺
現在の本能寺は、京都の繁華街として有名な河原町通りと祇園祭の山鉾巡行や時代祭の行列が通る御池通りの交差点から程近くにあります。
御池通りから寺町通りを南に入ってすぐのところに本能寺の門が見えます。
門を入って右にある宝物館では、本能寺の変の災禍を逃れた信長ゆかりの品々が展示公開されています。
境内には、織田信長・信忠父子と森蘭丸たち織田の家臣の供養塔もあります。
最寄りの駅は、市営地下鉄東西線の京都市役所前駅です。
2.旧本能寺
寺町にある本能寺、実は明智光秀が急襲した本能寺ではありません。
当時の本能寺は、今の場所より南西にありました。
規模ももっと大きく、城塞のようなお寺でした。
阪急烏丸駅・市営地下鉄烏丸線四条駅から、四条通りを西へ油小路通りを北へ歩いて数分のところです。
元の本能寺があったところは、今老人ホームや高校になっていて、石碑だけがひっそりとたたずんでいます。
3.南蛮寺跡
旧本能寺から東へ少し歩いたところに南蛮寺跡があります。
南蛮寺は、イエズス会宣教師が信長の庇護を受けて建てた南蛮の教会がありました。
謎の多い本能寺の変ですが、秀吉黒幕説をとっている加藤廣氏の小説「信長の棺」では、信長が非常の際の脱出ルートとして南蛮寺と本能寺を地下道でつないでいたとしています。
光秀に襲われたとき、信長はこの抜け道を通って脱出を図るが、秀吉が事前に抜け道をふさいでいた。
信長は抜け道の中で、前にも後ろにも行けずに窒息死してしまう。
抜け道が途中でふさがれていたことを知った阿弥陀寺(次に紹介します)の住職は、南蛮寺側から掘り、信長の遺体を発見、運び出した。
そのために光秀が信長の遺体を発見できなかった。
もちろんフィクションですが、もしかしたらそんなことがあったのかもと思いながら一気に読んでしまうほど面白い作品でした。
4.阿弥陀寺
「信長の棺」では、阿弥陀寺の住職が信長の遺体を運び出して、阿弥陀寺に埋葬したことになっています。
今出川通りから寺町通りへ、北へ歩いていくと阿弥陀寺が見えてきます。
門の横には、「織田信長公本廟」と書かれた石碑があります。
豊臣秀吉の時代に現在地に移転されていますが、境内には信長・信忠父子や森蘭丸らのお墓があります。
信長の命日6月2日には、毎年「信長忌」が営まれています。
京阪出町柳駅・市営地下鉄烏丸線今出川駅が最寄り駅です。
5.坂本城跡
光秀最初のお城ですね。
坂本城自体は、本能寺の変の後、大津上築城の際に壊されたために、遺構の正確な場所はほとんどわかりません。
ですが、石碑や石像、坂本城址公園など、城下町をゆっくりと歩くと、結構見ごたえのある興味深い場所です。
アクセス:JR琵琶湖線大津駅から江若バス下坂本下車 徒歩5分
6.西教寺
坂本城址から少し離れたところにあります。
明智家の菩提寺で、明智一族のお墓と供養塔があります。
光秀の妻煕子の墓もあります。
7.丹波亀山城周辺:南郷公園
当時の亀山城は、小高い丘に築かれた立派な店主があるお城だったそうですが、今は残っていません。
ですが、周辺には光秀の史跡や足跡が数多く残っていますので、時間をたっぷりとって明智光秀の足跡をたどってみるといいのではないでしょうか。
アクセス:JR嵯峨野山陰線 亀岡駅下車 徒歩10分
8.谷性寺(こくしょうじ)
光秀が、本能寺に向かう前に祈願したお寺で、別名「光秀寺」とも呼ばれています。
ここには、山崎の合戦に敗れ、坂本城へ逃れる途中で自害した光秀の首が葬られていると伝わっています。
ききょうの里
谷性寺に隣接する桔梗の庭園です。
明智家の家紋は、桔梗です。光秀を偲び、桔梗が植えられたことがその始まりと言われています。
6月下旬から8月ごろまで、境内一体が桔梗で彩られます。
亀岡ききょうの里
(2022.7.10)谷性寺の明智光秀のお墓の前にも桔梗の花が。
また、参道脇に名残りの紫陽花や半夏生の群生も。 pic.twitter.com/65WqFXopoV— 手鞠 (@kiratemari) July 20, 2022
アクセス:京阪京都交通バス 猪倉下車 徒歩5分
9.明智藪・本経寺
山崎の合戦に敗れ、坂本城へ逃れる途中、光秀は京都山科の小栗栖あたりを通りました。
光秀が落ち武者狩りに襲われ、自害した地が、明智藪と呼ばれてひっそりと残っています。
車では、行けないほどの狭い場所なので、徒歩で行った方が良いでしょう。
明智藪から数分歩いたところには、本経寺があります。
本経寺には、明智光秀の供養塔があります。
どちらも、徒歩がおすすめですので、車で来られる方は、近くパーキングにとめてくださいね。
アクセス:京都地下鉄東西線石田駅から徒歩15分・小野駅から徒歩10分
明智光秀を描いたおすすめの作品
こちらでは、明智光秀が登場するおすすめの作品を紹介します。
「本能寺ノ変 431年目の真実」 明智憲三郎著
明智光秀の子孫 明智憲三郎氏が本能寺の変についてまとめた本です。
史料を丁寧に紐解き、独自の発想で書かれており、面白く読めます。
「信長協奏曲ヒストリア」 ぶんか社出版
人気コミックでドラマ化・映画化もされた「信長協奏曲」の内容を実際の歴史上の人物や史実と照らし合わせて解説した本です。
戦国の豆知識的なことも書かれていて、楽しく学べる本です。
「覇王の番人」 真保祐一著
光秀の織田信長との出会いから本能寺の変までを著者独自の解釈で描かれた小説です。
また違った視点で見た光秀の生涯を楽しめます。
「国盗り物語」 司馬遼太郎著
主人公は、斎藤道三と織田信長ですが、二人と光秀との関係がテンポよくわかりやすく描かれ、戦国の世界にどんどんはまっていくような素晴らしい作品です。
まとめ
今回は、2020年大河ドラマの主人公明智光秀について述べてきました。
- 戦国武将として、武功をあげ、善政を布いた光秀
- 愛妻家として家族を愛した光秀
- 信長の家臣として、忠誠をつくした光秀
- 多くの謎を残しながら、主君を弑した裏切り者として去った光秀
様々な明智光秀の人生をほんの少しでも感じていただけたでしょうか。
光秀をもっと知りたいと思ってくださったなら、幸いです。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」が始まるこの機会に、明智光秀の波乱の人生を少したどってみてはいかがでしょうか?
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