黄表紙の元祖といわれた恋川春町とはどんな人物だった?

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浮世絵 歴史人物
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恋川春町は、江戸中期の戯作者兼浮世絵師です。

黄表紙(大人向けの風刺のきいた漫画)の先駆けといわれ、あの蔦重(蔦屋重三郎)を支えた1人でもあります。

今回は、武士と戯作者・絵師という二足の草鞋を履きながら、多くの人気作を描き上げた恋川春町の生涯を追ってみましょう。

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恋川春町の略歴

延享元年(1774) 駿河で生まれる
宝暦13年(1763) 駿河小島藩に出仕・倉橋家の養子となる
安永2年(1775) 挿絵絵師としてデビュー
安永4年(1777) 『金々先生栄花夢』出版
安永5年(1778) 小島藩留守居添役となる
同年 倉橋家の家督を相続
天明2年(1781)頃 狂歌の世界へ入る
天明7年(1787) 小島藩御年寄本役となる
寛政元年(1789) 『鸚鵡返文武二道』出版
同年7月7日 死去
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下級武士の子として生まれた春町

延享元年(1744)、春町は紀州徳川家家老・安藤帯刀の家臣であった桑島勝義の次男として生まれました。

宝暦13年(1763)には、駿河小島(おじま)藩(今の静岡県静岡市)に出仕し、同年父方の伯父にあたる倉橋勝正の養子となります。

本名:倉橋格(いたる)となった春町は、小島藩で順調に出世していきます。

小納戸格、刀番、お留守添役、側用人、用人…天明7年(1787)には御年寄本役として120石取りの身分となりました。

絵師・恋川春町の誕生

春町が絵師としてデビューしたのは、安永2年(1775)のことで、おそらくその数年前には絵を学び始めていたのでしょう。

師匠は『百鬼夜行絵巻』などの妖怪画が有名な鳥山石燕(せきえん)です

百鬼夜行

恋川春町という筆名(ペンネーム)は、小島藩の江戸藩邸があった小石川春日町と当時の人気絵師・勝川春章(しゅんしょう)にちなんで命名したと考えられています。

勝川春章は葛飾北斎の師匠で、写楽をはじめ多くの浮世絵師に多大な影響を与えたそうですよ

黄表紙「金々先生栄花夢」

安永4年(1777)には、挿絵も文章も手掛けた『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』が出版されます。

この作品は蔦重のライバルであった鱗形屋という出版元から出されたもので、江戸で一旗揚げようと田舎から出てきた若者が、栄華を極めた後に落ちぶれてしまうという夢を見て、虚しくなって国へ帰るという話でした。

『金々先生栄花夢』は、それまでにあった草双紙(娯楽本)とは異なり、大人が読んで面白いと評判になりました。

本

以降、風刺のきいた大人向けの草双紙を「黄表紙」と呼ぶようになります。

春町は、黄表紙の先駆け・元祖となったのです。

春町は、鱗形屋を版元として次々と作品をヒットさせました。

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蔦屋重三郎との出会い

天明期(1781~89)になると、春町は急激に台頭してきた版元・蔦屋重三郎(蔦重)のもとから黄表紙を出版するようになります。

蔦重

春町と蔦重がいつごろ、どのように出会ったのか、具体的にはわかっていません。

でもおそらくは春町の親友であった朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)がつないだのだと思われます。

朋誠堂喜三二とは?
戯作者であり狂歌師でもある人物。朋誠堂喜三二がデビューしたころから蔦重がサポートしていた。また、蔦重自身も狂歌師であることから、狂歌仲間としても深いつながりがあったようだ。

春町は、戯作者・絵師以外に狂歌師としても活躍していました。

狂歌とは、日常のあれこれや政治、社会のものごとを皮肉や洒落を聞かせて5・7・5・7・7の形で詠む短歌のことです。

狂歌師としての名前は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」

ちなみに蔦重の狂歌名は「蔦唐丸(つたのからまる)」、朋誠堂喜三二は「手柄岡持(てがらのおかもち)」です。

狂歌師同士で狂歌連(グループ)も作っていたそうです。

俳句 歌

もしかすると、朋誠堂に誘われた春町が蔦重の吉原連に参加し、それが2人を繋ぐきっかけとなったのかもしれません。

蔦重との出会い以後は、次第に蔦屋から出版することが増えてきました。

でも鱗形屋が版元となる黄表紙も絶えたわけではありません。

蔦重が活躍するようになり、その存在感がやや薄れていた鱗形屋ですが、春町にとってはデビューを支えてくれた大切な版元、その恩は忘れていなかったのでしょう。

寛政の改革による弾圧

蔦重を中心とした出版界の最盛期は、江戸幕府の政権交代により終わりを告げます。

なにごとにも鷹揚で自由闊達な空気が満ちていた江戸の町で、松平定信による風紀引き締め政策が始まったのです。

松平定信

文筆家たちの憂うつ

清廉潔白が過ぎる政策に、次第に不満が募る民衆たち。

その空気を敏感に察知したのが蔦重たちでした。

社会を痛烈に風刺し、幕府が進める改革を茶化す作品が出版され、ベストセラーとなります。

そして春町も。

鸚鵡返文武二道

寛政元年(1789)、春町は『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』という黄表紙を出版します。

これは、松平定信が作った教諭書『鸚鵡言(おうむのことば)』を茶化したもので、武を奨励すると武士たちは武勇を誇って町で大暴れ、文(学問)を奨励すればその内容を勘違いした武士たちがまた町で大騒動を起こすという話です。

その舞台は京、登場人物も鎌倉時代の政治家ですが、彼らが松平定信やその部下であることは明らか。

この黄表紙は記録的なヒットとなりますが、その代償は大きすぎるものでした。

まもなく春町は、幕府から出頭を命じられたのです。

謎の死

春町は病気を理由に出頭命令を辞退しました。

この頃の春町は、小島藩の年寄本役という重要なポストにいましたが、4月には隠居。

そして、

寛政元年7月7日。

春町は謎の死を遂げます。

享年46歳。

藩に迷惑をかけないための、自殺ではなかったかとも言われていますが、真相はわかっていません。

春町が亡くなった翌年には、厳しい出版統制令が出され、それに違反したという罪で蔦重が処罰、多大な罰金を科せられました。

その後も蔦重は葛飾北斎や写楽などによる浮世絵で巻き返しを図ります。

写楽

しかし彼の死後、江戸の出版界は苦難の時代を迎えることとなりました。

恋川春町の代表作

春町の手掛けた作品は生涯で約30点ほどです。

実際に執筆活動を行っていた期間が約12年ですから、その間にこれだけの作品を生み出したことになります。

小島藩への勤めを怠ることなく果たしながら、執筆していた春町。

それだけ戯作者・絵師の仕事を誇りに思い、何よりも好きだったのでしょう。

本

ここでは、前述した『金々先生栄花夢』『鸚鵡返文武二道』以外の代表的な作品を紹介しておきます。

  • 『当世風俗通(とうせいふうぞくつう)』 作・朋誠堂喜三二/絵・恋川春町
  • 『高慢齊行脚日記(こうまんさいあんぎゃにっき)』作・絵 恋川春町
  • 『三舛増鱗祖(みますますうろこのはじめ)』作・絵 恋川春町
  • 『三幅対紫曽我(さんぷくついむらさきそが)』作・絵 恋川春町
  • 『案内手本通人蔵(あなてほんつうじんぐら)』作・朋誠堂喜三二/絵・恋川春町
  • 『万歳集狂歌来歴(まんざいしゅうきょうからいれき)』作・絵 恋川春町
  • 『須臾之間方(ちょんのまほう)』作・絵 恋川春町(遺稿)

恋川春町や蔦屋重三郎をもっと知りたい人におすすめの書籍

最後に恋川春町や蔦重、彼らの時代について興味のある方におすすめの本を紹介します。

蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人  車浮代

浮世絵をはじめとした江戸文化に造詣の深い時代小説家の車浮代氏が書かれた本です。蔦重を中心とした江戸の出版界や春町や蔦重が生きた時代についてわかりやすく解説されています。

巻末にはこの本に登場する人物ゆかりの地が紹介されていたり、蔦重の年表もあります。

楽しく江戸文化を学びたい方にとってもおすすめです。

これ一冊でわかる!蔦屋重三郎と江戸文化  伊藤賀一

蔦重の生涯を始め、彼がプロデュースした文人たちや彼らが暮らした江戸の町・文化・社会について解説しています。

豊富な写真や絵でわかりやすく、楽しく読むことができます。

恋の川、春の町  風野真知雄

人気時代小説家・風野真知雄氏が描く恋川春町の生涯。

藩の重役でありながら、おかみを批判する黄表紙を書き続けた春町の、不器用で愛すべき姿。

面白くて切ない素敵な小説です。


小説で蔦重の世界を楽しむなら、こちらもおすすめ!

名手達が描いた「蔦屋重三郎と仲間たち」

蔦重と仲間たちが、さまざまな作家たちの手で生き生きと描かれた短編集です。

実はこの記事を書いている時点では、この本はまだ発売されていません!

でも絶対に面白いと確信して紹介しています。

恋川春町が登場するの作品は、前述の「恋の川、春の町」ですが、それ以外にも山東京伝・葛飾北斎・喜多川歌麿などが主人公となった短編も掲載されています。

これを読めばきっとあなたも蔦重の仲間になった気分に!なれるかもです。

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