幕末には多くの剣客が活躍し、散っていきました。
伊庭八郎(いばはちろう)もその一人です。
幕臣として戊辰戦争を戦い抜き、新選組土方歳三が戦死した翌日に亡くなっています。
今回は、伊庭八郎の生涯と剣客らしからぬ一面や新選組土方歳三との接点などについて紹介します。
幕末ファンはもちろん、イケメン好きのあなたにもきっと面白く読んでいただけると思います。
是非最後まで読んでくださいね。
伊庭八郎、江戸剣術道場に生まれる
1844年(天保15年)伊庭八郎は、江戸の4大剣術道場の一つ「錬武館」心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の8代目当主伊庭軍兵衛の嫡男として生まれました。
幼い頃の八郎は、剣術よりも文学が好きな少年で、体つきも華奢だったと言われています。
しかし、16歳の頃から始めた剣術では、その才能が次第に開花し、めきめきを腕を上げ
- 伊庭の小天狗
- 伊庭の麒麟児
などと呼ばれるようになります。
そして1863年(文久3年)には、幕府の講武所剣術方に登用され、よく1864年(元治元年)には、奥詰(将軍の親衛隊)として徳川家茂の上洛に従っています。
上洛中の八郎は、警護の合間に名所旧跡を巡ったり、大好きなスイーツを堪能したり、土産を買ったりと穏やかな日々も送っています。
そのころのことを書いたものが
『征西(せいせい)日記』という本になっています。
寺社巡りや食べ歩きの話などが書かれていて、のちの勇ましい伊庭八郎の姿からは想像できないようなスイーツ男子っぽいエピソードも多く、とても興味深い本です。
穏やかな日を送っていたのもつかの間、あの池田屋事件が起こります。
幕府は、池田屋事件の混乱に慌て、将軍の江戸への帰途を急いだのです。
池田屋事件
1864年(元治元年)6月5日(今の7月16日)祇園祭宵山の夕刻。
その前日に新選組探索の網にかかった古高俊太郎から得た情報によると
長州・土佐・肥前などの浪士たちが京の町に火をつけ、
その騒ぎに紛れて御所から帝を連れ去るという過激なものでした。
(諸説あります)
古高俊太郎が捕まったことで、浪士たちが話し合いをするだろうとの予測から、新選組は会津や幕府と連携して、浪士捕縛を計画します。
しかし、幕府の腰は重く、新選組単独で、数班に分かれて四条から三条あたりを探索。
近藤勇・沖田総司・永倉新八らは池田屋に集まっている浪士を見つけます。
相手は20数人いると思われましたが、わずか5人ほどだった近藤たちは、ひるむことなく捕縛にかかりました。
のち土方ら別動隊も合流し、数時間の戦闘の末、浪士たちの多くを捕縛しました。
しかし、その当時討幕派の大物と言われた宮部鼎蔵(ていぞう)や、そのとき吉田松陰がもっともその才能を期待していたと言われる吉田稔麿(としまろ)らが自害、斬死しました。
その結果、明治維新が1年遅れたという説も出るほどです。
新選組は、この事件で一躍有名になりますが、これをきっかけに討幕派との闘争は一層激化することになってしまいます。
池田屋跡(現 旅籠茶屋池田屋はなの舞)
1866年(慶応2年)幕府は軍政を改革して奥詰は遊撃隊と改編され、八郎もその一員になります。
旧幕府軍として徹底抗戦する義勇の侍
1867年(慶応3年)幕府に滅びの影が迫ってきました。
八郎たち遊撃隊は、徳川慶喜の護衛のため再び上洛します。
伏見に布陣した遊撃隊は、1868年(慶応4年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いに参加しますが、薩長軍に錦の御旗が立ったことにより、多くの藩の裏切りに遭い、また、薩長軍の新式銃の前に敗北してしまいました。
徳川慶喜が江戸へ帰還したことにならい、遊撃隊や新選組などの幕臣たちも江戸へ帰り、再び薩長軍を迎え撃とうと考えます。
しかし、将軍慶喜は戦う意思を見せません。
しかしあくまで戦い抜くとする幕臣たちは多く、八郎もその一人でした。
4月11日の江戸無血開城と共に、八郎たち遊撃隊は江戸を脱走し、彰義隊と官軍の上野戦争の際には、遊撃隊も箱根の関所で小田原藩と戦闘になりました。
箱根での死闘の中で、八郎は左手に重傷を負います。
左手首がほぼ皮一枚残して斬られたのです。
それでも八郎は、右手一本で3人もの敵を切り倒し、血路を開きました。
その後、八郎は左手の治療を受けます。
最先端の技術を持った医師に治療を受けたおかげで、命に別状はなかったのですが、その時の治療というのが、左腕を肘から切断するというものでした。
八郎は、麻酔をしようとする医師に、
「他人が自分の骨を切るというときに、眠っていられるか」
と言って、麻酔なしで手術を受けたのです。
自分に左腕が切られる間、八郎は顔色一つ変えずにいたといいます。
色白の美男で江戸の女性がほおっておかないほどのイケメンだった伊庭八郎ですが、豪胆さには驚きます。
傷の療養のため戦線を離脱せざるを得なかった八郎は、1868年(慶明治元年)11月、横浜を出航し、函館に到着。
榎本武明率いる旧幕府軍に合流し、再び遊撃隊士となりました。
伊庭八郎 覚悟の死
翌1869年(明治2年)4月、遊撃隊は、木古内で官軍と激戦にの末、敗走します。
この戦いで、八郎は胸部に銃弾を受け、それが致命傷になってしまいました。
同年5月11日、官軍の函館総攻撃を受け、土方歳三が戦死、榎本の海軍も敗戦、旧幕府軍の敗北は決定的になります。
翌12日、伊庭八郎は、死期を悟り、榎本の差し出したモルヒネを飲み干して自決しました。
享年わずか27歳でした。
八郎が亡くなった6日後、榎本は降伏を決め、戊辰戦争は終結しました。
伊庭八郎の亡骸は、土方歳三ら幕臣と共に五稜郭の一角に葬られたと言われています。
伊庭八郎と土方歳三は友だった?!
幕末のイケメンと言えば、新選組副長土方歳三が有名です。
実は、伊庭八郎と土方歳三は、新選組が結成されるより前からの知り合いだったという話があります。
伊庭八郎は、江戸4大剣術道場の嫡男、一方土方歳三は、近藤勇の「試衛館」に居候している多摩の豪農の末っ子です。
イケメン以外に共通点はなさそうなのですが、八郎は、「試衛館」にもよく顔を出していたようです。
そのきっかけはわかりませんが、幕末を代表するほどのイケメンが二人も揃っているのです。
江戸の町ではさぞモテたことでしょう。
土方にとって八郎は、沖田総司と変わらない9歳年下の八郎は、弟のような存在だったと思われます。
やがて八郎は剣術指南方として、土方は京で新選組を結成し、二人が合うことは無くなります。
再会するのは、ずっとのち、函館の地です。
左腕を無くした伊庭八郎と、朋友近藤勇と沖田総司を失っていた土方歳三。
激戦を生き抜いてきた二人は、どのような会話をしたのでしょうか。
弟分のような八郎に、土方はきっとねぎらいの言葉をかけたのでしょう。
ひと時の再会ののち、二人はそれぞれに戦い抜きます。
そして、土方歳三は、函館最後の戦いで、孤立した仲間を助けるために出陣する途中に銃弾に倒れました。
翌日に亡くなった伊庭八郎は、おそらく土方の死を知っていたでしょう。
「土方さん、よくやった。俺も今行くからな」
江戸の悪友は、ともに戦い抜き、ともに旅立って逝きました。
伊庭八郎をもっと知りたい人におすすめ!
伊庭八郎は、最後まで武士として戦い抜いた気骨ある人でした。
でも、江戸ではその名を知らない人がいないほどの有名人で、イケメンぶりはすさまじく、錦絵(ブロマイドのようなもの)が作られていたそうです。
今では漫画や小説、ゲームなどにも登場しています。
「伊庭八郎幕末異聞」 秋山香乃
私の一番のおすすめは、秋山香乃氏の「伊庭八郎幕末異聞」シリーズです。
土方歳三との関係もちらっと出てきます。
「幕末遊撃隊」 池波正太郎
時代小説の大御所・池波正太郎が描く伊庭八郎の生涯。
べらんめぇ口調に江戸っ子らしい生きざまはとにかくかっこいいです!
男くささもありつつ、優しくて粋な八郎に会える一冊。
「MUJIN 無尽」 岡田屋鉄蔵
伊庭の小天狗といわれたイバハチこと伊庭八郎の生涯を描いたコミック。
繊細な絵が魅力的な一冊です。
ある幕臣の戊辰戦争 – 剣士伊庭八郎の生涯 中村彰彦
伊庭八郎の伝記ですが、幕末史についてもよく理解できる本です。
幕末に詳しくない人でも読みやすいのではないでしょうか。
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