鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室・北条政子。
あなたは、北条政子にどんなイメージを持っていますか?
悪女、烈女、嫉妬深い…。
どちらかと言えば、負のイメージが強いのではないでしょうか。
私も「北条政子ってちょっと強烈な女性やな」という風に思っていました。
ですが、調べてみるとまた違った北条政子が見えてきました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、小池栄子さんが演じる北条政子。
本当はどんな女性だったのでしょうか。
北条政子の生涯 ~御台所として
政子が北条時政の長女として生まれた保元2年(1157年)は、「保元の乱」翌年でした。
崇徳上皇と後白河天皇の争いに、源氏と平家の一族がそれぞれ両派に分かれて戦った戦で、勝ったのは後白河天皇、味方に付いていたのは、平清盛と源義朝でした。
平治元年(1159年)には、平清盛と源義朝が戦い、平清盛が勝利します(平治の乱)。
源義朝は殺され、嫡男の頼朝は伊豆に流されました。
頼朝の監視役となったのが、北条時政。
時政の娘・政子はいつのころからか頼朝と恋仲になっていきます。
2人の中を知った北条時政は、平家へ知られることを恐れ、反対をしていました。
平家ゆかりの男性のもとへ、政子を嫁がせようとしますが、政子は抵抗したといいます。
そうこうするうちに、政子が頼朝との間に子を授かったこともあり、時政は2人の結婚を認めました。
授かり婚!
やがて、政子は長女大姫(おおひめ)を産みました。
頼朝挙兵
治承4年(1180年)
都で平家打倒の戦いが始まりました。
頼朝も挙兵し、一度は惨敗しますが、北条時政とともに安房国(現・千葉県南部)に逃れて再度挙兵しました。
東国の武士たちは、続々と頼朝のもとに集まり、頼朝は、源氏ゆかりの鎌倉へ入り、各地で勝利を収めてゆきます。
鎌倉に居を定めた頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれ、政子は「御台所」と呼ばれるようになりました。
御台所・政子は、長男の頼家を出産します。
寿永2年(1183年)には、長女の大姫が、頼朝と対立していた源義仲との和睦の条件という形で義仲の息子・義高と婚約します。
義高11歳、大姫6歳という幼い夫婦でしたが、大姫は義高を慕うようになります。
この時期の政子は、母として幸せな日々を過ごしていたと考えられます。
しかし、この暮らしは長く続きませんでした。
元暦元年(1184年)
頼朝は、先に入京しながら、平家に負け、後白河法皇とも対立してしまった義仲を討伐しました。
鎌倉にいた義高も攻められますが、大姫が鎌倉から脱出させます。
ですが、逃げ切ることはできず、殺されてしまいました。
大姫は悲嘆のあまり、重い心の病になってしまったのです。
政子は、大姫の快癒を祈願し、寺社に参詣しましたが、大姫が立ち直ることはありませんでした。
鎌倉幕府成立
頼朝は、その後も弟の源範頼、義経とともに平家と戦い続けます。
元暦2年(1185年)
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、頼朝は鎌倉において実質的な幕府を開きました。
頼朝の力が強くなることを恐れた後白河法皇は、源義経に頼朝追討を命じますが、義経は敗れました。
文治2年(1186年)
義経の愛妾・静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られます。
頼朝の命により、しぶしぶ舞を披露した静御前は、義経を慕う歌を歌いながら舞を舞いました。
それに激怒した頼朝に、政子は、頼朝と出会ったころのことや頼朝が挙兵していた時に不安の中で待っていた日々のことを話しました。
私のあの時の愁いは、今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません
政子の言葉に、頼朝は怒りを鎮め、静に褒美を与えました。
静は、その後義経の子・男子を産みます。
頼朝は、女子なら助けるが、男子なら殺すよう命じていたのですが、政子は子の助命を願いました。
しかしこの願いは聞き届けられませんでした。
政子は、静を憐れみ、京へ帰る彼女に多くの重宝を持たせました。
このころ政子は、次女三幡(さんまん)をお腹に宿していたこともあり、同じ母として静の悲しみを受け止めていたのかもしれません。
尼御台・北条政子
文治5年(1189年)4月
頼朝は、奥州に逃れた義経の征伐のために、出陣します。
政子は頼朝の勝利を祈願するため、鶴岡八幡宮でお百度まいりをしました。
そのおかげか、頼朝は無事に奥州征伐を遂げ、義経と奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉に凱旋しました。
建久3年(1192年)
頼朝は、征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府の長となりました。
私が学生の頃は、鎌倉幕府成立の年を1192年と教わっていました。
「いいくに(1192)つくろう 鎌倉幕府」で覚えていた年号は、今では「いいはこ(1185)つくろう 鎌倉幕府」になっています。
「いいくに」か「いいはこ」で年齢がばれてしまう…
この年、政子は次男・千幡(のちの3代将軍実朝)を産んでいます。
相次ぐ家族の死
このころの政子が母として最も心を砕いていたのは、長女大姫の行く末でした。
大姫は、いいなずけだった義高を失って以来、体調がすぐれず、病の床に就くこともしばしばでした。
政子は、大姫を後鳥羽上皇へ入内させようと計画します。
帝が相手なら、大姫も喜ぶだろうと思っての事でしたが、いまだ義高を慕い続けていた大姫は拒み、重い病にかかってしまいました。
建久8年(1197年)、大姫はわずか20歳で亡くなってしまいます。
政子の悲嘆は大きく、自らも死のうと思うほど悲しみました。
ですが、頼朝に諭され、あとに残る子供たちのことも考えて、かろうじてとどまったのです。
政治的に考えても、有利な帝への入内をあきらめきれない頼朝は、今度は次女の三幡を入内させようとしますが、これは、朝廷の実力者に邪魔されてしまいました。
その上、鎌倉幕府派だった関白・九条兼実が失脚したため、頼朝は上洛する準備を始めます。
しかし、頼朝が上洛することはありませんでした。
建久10年(1199年)1月
源頼朝は、落馬が元で急死してしまったのです。
政子は出家して「尼御台」と呼ばれるようになり、頼朝の後を継いだ頼家の補佐をするようになりました。
新たな道を歩もうとしていた政子を、再び不幸が襲います。
頼朝の死からわずか半年後、今度は次女の三幡までもが病死したのです。
わずか14歳の愛娘の死に、政子の心は壊れんばかりだったことでしょう。
ですが、ここでくじけないのが北条政子。
夫・頼朝が築き上げた鎌倉幕府を守るため、尼御台として奔走します。
政子、動く
2代将軍となった頼家は、まだ若く、御家人からの信頼も低かったため、御家人たちの反発が続いていました。
そこで、有力な御家人ら13人による合議制が定めれられます。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』とは、合議制に任命された御家人13人の事です
しかし、この制度もうまく働かず、頼家は、たびたび御家人とぶつかり、政子が騒ぎを収めていたと伝わっています。
頼家は、蹴鞠に夢中になり、政治はそっちのけです。
御家人の不満は日に日に高まり、頼家は政子の諫めも聞きません。
そんな中、頼家が病を患い、危篤に陥りました。
政子と、父・北条時政は、この時とばかり動きます。
頼家の嫡子・一幡と頼家の弟・実朝で、日本を分けようと考えたのです。
これを聞いた頼家は怒り、北条氏討伐を命じました。
しかし、政子と時政は、先んじて兵を挙げ、頼家に重用されていた比企能員を謀殺。
権勢を誇っていた比企氏とを滅ぼします。
頼家と比企氏の娘との子であった一幡もこの時に死んでいます。
病から回復し、比企氏の滅亡を聞いた頼家は、時政討伐の命を出しますが、すでに主導権は北条氏に握られていました。
頼家は将軍職を追われ、伊豆の修善寺に幽閉され、翌年死去しました。
北条氏の執権政治
頼家に変わり、将軍となったのは実朝でした。
しかし、実権を持っていたのは、初代執権に就任した北条時政です。
時政とその妻・牧の方(政子の継母)は、さらに政権の独占を図ります。
それを知った政子は、実朝を連れ戻します。
時政は、実朝を廃して、女婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしますが、政子は弟の北条義時と組んでこの陰謀を阻止し、時政を出家させ、伊豆へ追放しました。
時政に変わり、義時が2代執権となりました。
3代将軍・源実朝
実朝は、兄頼家とは違い、大変優秀で教養が高く、朝廷との融和も上手く、後鳥羽上皇も実朝を優遇しました。
しかし公家政権と近づくことは、御家人たちの不満を買ってしまうことでもありました。
実朝の朝廷での官位が上がると、御家人たちは一層不満を持ち、義時らが実朝に注意をすることもありました。
公家と仲良くなる実朝を良く思わない御家人は少なくありませんでした。
そしてついに…。
建保7年(1219年)
鶴岡八幡宮へ参拝に行った実朝が暗殺されます。
犯人は、頼家の息子の公暁でした。
最後に残った子供まで殺された政子は、深く嘆きました。
子どもたちの中でただ一人生き残った大臣殿(実朝)を失い、これでもう終わりだと思いました。尼一人が、憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました
しかし、政子は再び立ち上がります。
尼将軍・北条政子
実朝亡き後、政子は次期将軍を後鳥羽上皇の皇子にしようと京へ使者を送りました。
上皇はこれを拒否したため、政子の弟・義時が動き、藤原摂関家の頼経を次期将軍に任命します。
と言っても頼経は、まだ2歳の幼子でした。
そのため、将軍の後見という形で、政子が代行するようになります。
尼将軍・北条政子の誕生です。
承久の乱
将軍継嗣の問題以来、鎌倉幕府と朝廷が対立するようになります。
実朝との関係を深め、いずれは朝廷の権力を取り戻そうとしていた後鳥羽上皇でしたが、実朝が暗殺されたことで、頓挫、鎌倉幕府が再び武士政権として強くなろうとしたためです。
承久3年(1221年)
対立は次第に激化し、ついに後鳥羽上皇が動きます。
京都守護の伊賀光季を殺害、北条義時追討の院宣を諸国に出したのです。
後鳥羽上皇の挙兵に鎌倉の御家人たちは震え上がりました。
御家人たちの、朝廷に対する畏怖の心は、依然として大きく、朝廷を相手に戦うなど考えられないことだったのです。
最期の詞
動揺する御家人たちを前に、政子は演説を行いました。
故右大将(頼朝)の恩は、山よりも高く、海よりも深い。逆臣の讒言(事実を曲げて告げ口する)により不義の綸旨(天皇の命令)が下された。(裏切り者の)秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は、直ちに申し出て参じるがよい
「今安心して暮らせるのは、頼朝様のおかげであり、その恩はとても大きい。朝廷をたぶらかし、間違った命令が出てしまった。裏切り者を討ち、実朝様の御心に沿って我らの武家の世を守るのです。ただnし、朝廷側につきたい者は、直ちにそうするがよい」
「最後の詞(ことば)」として、呼びかけた政子に応え、御家人は立ち上がり、朝廷に向かっていきました。
後鳥羽上皇は、朝廷の威光に逆らえるものはいないと思っており、幕府側の攻撃を予想していませんでした。
そのため、朝廷側は各地で敗退、後鳥羽上皇は降伏し、隠岐島へ流されました。
政子は、義時と協力して戦後処理に当たっています。
政子 最後の働き
貞応3年(1224年)
政子とともに鎌倉幕府を支えてきた執権・北条義時が急死します。
後を継いだのは、義時の嫡男・泰時でしたが、義時の後室・伊賀の方が実子の北条政村を執権に立てようと動きます。
伊賀の方は、有力御家人の三浦嘉村と結託しようと企てますが、政子が先手を打ちました。
政子は、三浦嘉村のもとへ行くと、伊賀の方の企てに加担しているのか、直接詰問します。
見識も実績もある泰時を執権とする理を説いた政子に、三浦嘉村は平伏し、改めて北条泰時への忠誠を誓いました。
伊賀の方は、伊豆へ追放されました。
その後、北条泰時は鎌倉幕府の内政を固め、北条執権政治の中興の祖と呼ばれます。
日本初の武家法典「御成敗式目」を定めたのも、北条泰時です。
政子の目に狂いはありませんでした。
尼将軍・北条政子の最期
嘉禄元年(1225年)
政子は、病の床に臥し、死去しました。
享年69歳。
若くして実子をすべて失うという辛い出来事を乗り越え、鎌倉幕府を守るために懸命に生きた北条政子、波乱万丈の生涯の最期は、穏やかだったと思いたいです。
北条政子の人となりを探ってみた
北条政子の生涯を振り返ってみると、やはり「強い人」という印象があります。
わが子・わが父でさえ追放しています。
でもそれは、自分自身の欲のためではありませんでした。
私なりに考えてみました。
あなたはどう思いますか?
幕府を守るため
彼女の強引とも冷淡とも思える身内への処分は、ひとえに鎌倉幕府を守るためだったと考えられます。
頼朝とともに作った鎌倉幕府は、朝廷からの圧政から抜け出して、御家人の生活を安定させるものでした。
その鎌倉幕府がしっかりと続くことこそ、夫・頼朝の願いであり、政子の願いでした。
その願いを実現できる人物・方法を選んだ結果として、数々の残酷とも思える処分があったのではないでしょうか。
とはいえ、子供に対する愛情がなかったわけではありません。
母として愛情を注ぐ
当時の御家人のもとに生まれた女性の幸せは、誰と結婚するかで大きく左右されました。
政子が、長女・大姫や次女・三幡を帝へ入内させようとしたのは、朝廷とのつながりを求めたというより、子供たちの幸せを願ってのことだったように思います。
頼朝は、もちろん朝廷との関係を考えて入内を進めていたと考えられますが、母親である政子にとっては、娘の幸せこそが自分の喜びだったと思います。
母としての情は、義経の子を身ごもっていた静御前をかばった彼女の行動にも表れています。
生まれた子を何とか助けたかった政子でしたが、願いが聞き届けられず、それでも静御前に対してできることをしようとしていた、それは同じ母としての思いがあったからです。
母親として子供たちの幸せを見ることを願っていたであろう政子にとって、辛い出来事が多すぎました。
何度も立ち上がる強靭さ
最終的には、子供たちをすべて看取ることになってしまった政子。
しかし、ここで立ち止まっているような女性なら、歴史に名を残すことなどありません。
政子は、子を失うという最大の悲しみから何度も立ち上がり、鎌倉幕府を守るため、戦い続けました。
その強さはいったいどこから来ていたのでしょうか。
鎌倉幕府という武家政権のトップにいた政子は、自分の感情だけで動くことはできなかったのではないでしょうか。
覚悟ができたのは、やはり頼朝の存在が大きかったと思います。
頼朝への深い愛情
罪人として伊豆に流されていた源頼朝と、それを監視する北条家の娘・政子が恋に落ちたのは、政子の父・時政が、たまたま京へ行っていた時だと言われています。
平家が勢力を持っていたこの時期に、敵方である頼朝と結ばれるなどあってはならないことでしたが、政子は自分の気持ちを貫きます。
娘の一途さ(頑固さ?)にあきれ果てたかのように、時政は最終的には、頼朝との結婚を許しました。
それほどまでに愛していた頼朝が、あろうことか、自分の妊娠中によその女(亀の前)のところへ通っていると知った政子。
愛情が深すぎる=嫉妬深いとは限りませんが、政子はとんでもない行動を起こします。
亀の前が住んでいる屋敷を打ちこわすように命じたのです。
これ以後、頼朝は、別の女性のもとに行くときは、隠れるように密かに通っていたと言います。
この時代の有力な武士は、多くの妾をもって、子供を多く生ませて一族を増やすことが当たり前でした。
しかし、政子はそれが許せなかったようです。
これには、北条氏の地位も関係したようで、地方の一豪族でしかない北条氏出身の政子は、頼朝の正室としては、あまりに出自が低く、その地位が安定したものではありませんでした。
頼朝の正妻という地位を確かなものにするために、あえて攻撃的な行動をとったとも考えられています。
それは、頼朝への愛が深かったゆえなのか、北条氏の地位を確立するためなのかは、わかりません。
その後、頼朝を支え続けた政子にとって、鎌倉幕府は、先に亡くなってしまった夫の形見という思いもあったのかもしれません。
北条政子が登場する作品
平安から鎌倉時代へ移る時期って、歴史上に登場する人物が多すぎて、とてもややこしいですよね。
私もこんな風にいろんな歴史人物の記事を書くまでは、鎌倉時代は苦手でした。
でもなぜか、小説やドラマならすいすい頭に入ってくる…。
こんなこと、ありませんか?
ということで、最後は北条政子が登場する作品を紹介します。
政子が生きた時代をもっと知りたい方におすすめです!
北条政子 永井路子
大河ドラマ『草燃える』の原作です。
頼朝との出会いから、承久の乱直前までが描かれています。
強くてでももろい、悩み多き北条政子像が興味深いです。
炎環 永井路子
こちらも、『草燃える』の原作になっています。
4つの短編の世って、鎌倉時代初期が描かれています。
北条政子が主人公の話はないのですが、脇を固める人物として魅力的です。
龍になった女 ー北条政子の真実ー 高瀬千図
尼将軍と呼ばれ、希代の烈女と言われた北条政子の実像を描いた小説です。
心から愛した頼朝を失い、彼が守ろうとした幕府のため、”龍”になる覚悟をせざるを得ない政子ですが、実は心優しい女性だった。
運命に翻弄されながら強く生きた一人の女性の姿は、とても心にしみます。
尼将軍 北条政子 童門冬二
保元の乱から承久の乱まで、鎌倉幕府の草創期から初期を、北条政子の視点で描いています。
童門冬二さんの本は、どれも読みやすく、わかりやすいのですが、こちらの本も複雑な歴史的出来事を織り込みながら、とてもわかりやすく書かれています。
鎌倉時代が苦手な方にもすっと頭に入ってくる本だと思います。
華の王 市川ジュン
北条政子の半生を、頼朝との恋愛を通して描かれたコミック。
何はともあれ、北条政子が美しく気高い!です。
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