『青天を衝け』では、山内圭哉さん演じる岩倉具視。
「京ことば」というより関西弁丸出しっぽい強烈なキャラクターが印象的です。
『せごどん』では笑福亭鶴瓶さん、『八重の桜』では小堺一樹さん。
これだけでも、岩倉具視の個性的な人柄がわかりそうですね。
本当のところ、岩倉具視ってどんな人だったのでしょうか。
今回は、岩倉具視のエネルギッシュな生涯を紹介します。
岩倉具視の生涯 ~明治維新
文政8年9月15日(1825年10月26日)
岩倉具視は、公卿・堀川康親の次男として京都で生まれます。
幼名は、周丸(かねまる)でしたが、幼いころから公家らしくない言動や容姿だったため、「岩吉」と呼ばれていたそうです。
しかし、その強い意志力や行動力が認められ、14歳の時、岩倉家へ養子に入ることになり、岩倉具視を名乗るようになります。
ですが、岩倉家も成果と同様下級の公家で出世の見込みはほとんどなく、裕福ではなかったそうです。
公家の世界では、強烈な縦社会が支配していて、トップにいる摂関家と下級の公家では、まさに天と地ほどの差があったのです。
しかし、こんなことでめげないのが彼でした。
岩倉、頭角を現す
家に力がない岩倉は、まず公家のトップクラスで関白も務めたことのある鷹司政通のもとへ歌道入門をします。
鷹司家とのつながりをステップに、次第に政治的な意見書などを朝廷に提出します。
しかし超身分社会の公家世界では、そうそううまくいきません。
人材育成・実力主義による朝廷の変革も建白しますが、実現には程遠い状態です。
そんな彼が、頭角を現したのは、34歳の時、岩倉家に入ってから実に20年もの時がたっていました。
すごい意志力!
安政5年(1858年)
老中・堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るために上京します。
この時期、孝明天皇を含む公家たちは、ほとんどが開国に反対していました。
しかし、ときの関白・九条尚忠は、勅許を与えるべきと朝廷に働きかけます。
これに反発した岩倉は、反九条派の公家を結集させ、88人の公卿とともに参内、九条関白のもとに押しかけました。
面会を求める岩倉達に対し、九条は病と称して拒みます。
面会できるまでは動かないと、岩倉たちは九条邸の前に居座りました。
結局、この岩倉たちの行動により、勅許が与えられることはありませんでした。
これが、岩倉による初めての政治活動で、「八十八卿列参事件」と呼ばれています。
安政の大獄
安政5年6月
大老・井伊直弼は、勅許を得ないまま独断で日米修好通商条約を締結します。
これを知った孝明天皇は激怒、水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永らが井伊を非難しました。
井伊は、徳川斉昭・松平慶永らを謹慎処分にし、彼らに味方する一橋派や尊攘派への弾圧を始めました(安政の大獄)。
尊攘派…尊王攘夷派の略。天皇を貴び、夷敵(外国)を排除するという考え方
岩倉は、弾圧が公家らにも及び、幕府と朝廷の関係が悪化していくのを危惧していました。
岩倉は、京都所司代や伏見奉行などの役人と会談し、幕府との関係を修復しようとしました。
皇女和宮降嫁
安政7年(1860年)3月3日
桜田門外にて、井伊直弼が暗殺(桜田門外の変)された後は、安政の大獄は収束し、朝廷と幕府が手を取り合って、困難な時局を乗り越えようという公武合体派が、幕府の中心になってきます。
公武合体の象徴として、幕府側から提案されたのが、孝明天皇の妹・皇女和宮を徳川家茂に降嫁させるという案でした。
和宮は、すでに有栖川熾仁親王と婚約していたため、孝明天皇は拒否します。
岩倉は、今回の降嫁は朝廷と幕府の対立を解消させる手段になり、同時に朝廷の権威を取り戻すチャンスだと考え、孝明天皇に上申書を提出しました。
孝明天皇は、通商条約の破棄と攘夷の決行を条件に、和宮を降嫁させることを認めました。
岩倉、失脚する
和宮降嫁は、無事行われましたが、その直後に公武合体派の中心人物であった老中・安藤信正が尊攘派の水戸脱藩浪士に襲撃されます(坂下門外の変)。
安藤は、命はとりとめましたが、失脚し、公武合体も頓挫してしまいました。
そんな中、公武合体派だった薩摩藩の島津久光が京へ入ってきます。
岩倉は、薩摩藩と接触し、朝廷の権威を強める手段を取ろうと考えます。
天皇の命令のもと、安政の大獄で処分された人々を復帰させています。
しかし、朝廷内は三条実美らの攘夷派が台頭し、世情も過激な尊王攘夷派が目立つようになってきました。
公武合体を進めてきた岩倉は、彼らから佐幕派(幕府に従い助ける考え)とみなされ、孝明天皇まで岩倉を疑うようになります。
文久2年(1862年)8月20日
岩倉は、蟄居処分を受け、辞官・出家を命じられました。
岩倉は、朝廷から去りました。
岩倉、謹慎する
謹慎生活を始めた岩倉は、尊攘派に命を狙われたため、居住先を転々とする羽目になります。
逃げるように居を移している間、岩倉は、無念と悔しさあふれる日記を書いています。
自分がこのような処分にされたことにも納得していませんでした。
蟄居が命じられてひと月以上、点々とした後、岩倉は、長男・具綱(ともつな)が洛北の岩倉村に用意した住居にやっと落ち着きました。
以降、慶応3年の大政奉還後までの5年間をこの地で過ごすことになります。
しかし、あの岩倉がおとなしく謹慎しているはずがありません。
文久3年(1863年)の八月十八日の政変により、長州勢が京都から一掃されると、岩倉のもとに、薩摩藩や朝廷内の岩倉の同志たちが、彼のもとへ訪れることが増えてきます。
京の郊外、岩倉にいながら、岩倉具視は、時勢をにらみ、先を読み、朝廷にも意見書を書くなどの活動を再開しました。
そして、次々と変わってゆく時代の流れを見ながら、岩倉は、公武合体派から討幕派へと変わっていきます。
慶応2年(1866年)の幕府による第2次長州征伐の失敗、将軍家茂の逝去、そして12月には孝明天皇の崩御。
翌慶応3年の1月には、明治天皇が即位したこと伴う大赦がありましたが、岩倉はまだ赦免されません。
同年10月14日には、二条城で大政奉還が行われ、朝廷に政権が返上されます。
時代の流れがどんどんと早くなる中、岩倉はやっと赦免されました。
その犯人として岩倉具視の名も、たびたび出てきていますが、これは俗説の域を出ていません。
孝明天皇暗殺説は、あり得ることかもしれませんが、その首謀者が岩倉具視というのはおそらくないと、私は思っています。
王政復古の大号令
表舞台に復帰した岩倉は、精力的に動きます。
まだ政の実権を握っていた徳川慶喜へ辞官・納地を迫りますが、慶喜はこれを受け入れません。
御所へ参内した岩倉は、天皇親政を目指し、新政府の人事と慶喜の処分を求めた王政復古の大号令案を奏上、おおむね合意され、ここに王政の復古が発せられたのです。
しかし黙っていないのは、旧幕臣たちです。
徳川の権威を貶めるような行為、徳川家の領地を返上せよなどと無謀なことには、断じて応じられない!
旧幕府と新政府の間に一触即発の緊張が続きました。
慶応4年(1868年)1月3日
京の南・伏見において、旧幕府軍と新政府軍の戦が勃発しました。
戊辰戦争の始まりです。
岩倉は御所において、徳川征討の布告を決めます。
岩倉にとって、旧幕府軍の抵抗は予想済みだったのでしょう。
すでに錦旗まで用意していた岩倉は、徳川家を朝敵に仕立て上げて、新政府軍を勝利へと導いたのでした。
戊辰戦争は、ここから1年半ほど続きますが、新政府は歩み始めます。
新政府の首脳として、岩倉は次々と朝廷の改革をしてゆきました。
江戸城が無血開城され、江戸一帯に落ち着きが戻ったころには、天皇の江戸(東京に改称)行幸が決まります。
岩倉ら新政府閣僚も、明治天皇について東京へ移りました。
しかし、京の人々は納得できません。
そのため、明治2年(1869年)1月には、明治天皇が京都に還幸したのですが、岩倉も共として京へ戻ります。
そこで岩倉は、病気を理由に突然辞職を願い出ます。
大久保利通や木戸孝允ら閣僚は、強く慰留したのですが、1月17日、岩倉具視は新政府を去りました。
岩倉具視の生涯 明治維新以降
岩倉が新政府を去って、約3年。
岩倉は、外務大臣として復帰します。
外務大臣になった岩倉には、大きな課題がありました。
岩倉使節団欧米派遣
徳川幕府がアメリカと結んだ日米修好通商条約という不平等条約の改正は、新政府にとって大きな問題でした。
日米修好通商条約において、アメリカの領事裁判権を認める一方で、日本に関税自主権(輸入品に自由に税金をかける権利)がないなどのとても不公平な条約となっています。
つまり、アメリカ人が日本国内で悪いことをしても、日本の法にのっとって裁けないということです。
新政府は、これらの不平等な条約を改正すべく、日本はもっと文明国にならなくてはならないと、岩倉は考えていました。
そこで、欧米に使節団を送り、欧米を視察、それによって得た知識・経験で日本を文明国に発展させたうえで、条約の改正を交渉するように、提言します。
明治4年(1871年)11月
岩倉は、自らが特命全権大使となり、欧米へ向かいました。
ヨーロッパを視察した使節団は、1年半をかけて文化を学びます。
岩倉は、日本とは比べものにならないほど発展している欧米を目の当たりにし、まさに「カルチャーショック」を受けました。
岩倉は、特に鉄道の普及が肝心だと考え、帰国後すぐに日本鉄道会社の設立に取り組んでいます。
また、欧米各地で見た工場の制度も重要だと考えた岩倉は、少しでも早く大量生産が可能になる工場を整備しなくてはならないと痛感しました。
明治6年改変
欧米の技術力のすごさを実感して帰ってきた岩倉一行は、直ちに内政の充実をすべきだと政府に提言します。
しかし、このころ西郷隆盛・板垣退助らは、依然として鎖国政策をとっていた朝鮮に対し、使者を送り、開国を拒否されれば、出兵すべきだと訴えていました。
内政充実を主張する岩倉・大久保利通らと朝鮮出兵を主張する(征韓論)西郷たち。
閣議は紛糾し、最終決断をすべき太政大臣・三条実美は心臓病で倒れてしまいました。
実質上ナンバー2だった岩倉が、三条の代理となり、西郷の意見を退け、内政の充実・文明開化を図ることを決定します。
これを不服とした西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎らは一斉に閣僚を辞職してしまいました。
これ以降、征韓論を支持する士不平族らの明治政府への不満が噴出、岩倉は士族たちに襲撃され負傷する事態も起こります。
さらに不平士族たちは、次々と叛旗を掲げ、これが明治10年(1877年)の西南戦争へと続くことになるのです。
華族統制政策実施
明治に入ると公家や大名家の人たちは、華族となり特権が認められていました。
しかし、華族は何をする人々なのかが明確にされておらず、また大名出身と公家出身の華族は、たびたび衝突をするような始末でした。
岩倉は、明治9年(1876年)華族会館の館長となったのを機に、華族制度を見直すことにしました。
- 華族の使命は、皇室を守り、支えることである
- 華族の風紀を取り締まり、品位に欠く者は直ちに罰する
- 華族たちの資金は、国立十五銀行(華族銀行)に預ける
- 華族を出身別に分けて組織化を図る
などなどと改革をしたため、華族たちの役割がはっきりとし、旧公家・旧武家間の対立も次第に解消されました。
立憲問題
明治8年(1875年)、明治天皇は立憲政体(国会を開き憲法を制定する)の詔書を出します。
岩倉具視は、新政府の構造を一変させる恐れがあると、憲法を制定することに反対しました。
しかし、明治13年(1880年)ころから、自由民権運動が盛んになり、憲法制定の論議が加速します。
岩倉も憲法制定をすることが、日本の近代化を導くことができると考えます。
岩倉は、ドイツ憲法を模範とする憲法を主張していた伊藤博文の案を取り、伊藤は憲法の調査をするためにヨーロッパに派遣されました。
しかし岩倉は、伊藤の帰国も、大日本帝国憲法の制定も、見ることができませんでした。
岩倉具視 死去
明治16年(1883年)初めころから、岩倉の体調は徐々に悪くなっていきました。
5月に入り、京都へ行った岩倉の体調が一気に悪化します。
知らせを聞いた明治天皇は、東京大学医学部教授だったエルヴィン・フォン・ベルツを京都に派遣、岩倉を診察させました。
岩倉は、ベルツから喉頭がんだと告知され、治療は不可能だと言われます。
しかし岩倉は、京での仕事(京都御所の整備など)を最後までやり遂げます。
東京へ戻った岩倉は、静養に入りますが、病状はどんどん悪化します。
明治天皇は、たびたび岩倉の見舞いに訪れていました。
天皇が最後に見舞いをした翌日の7月20日。
岩倉具視は亡くなりました。
享年59歳。
7月25日には、日本初の国葬により、岩倉具視は送られました。
岩倉が亡くなって7年後、大日本帝国憲法は施行されます。
岩倉具視の人物像
近代日本の基礎を気づいた一人である岩倉具視。
規格外の公家と言われた岩倉具視とは、どんな人物だったのか。
逸話や同時代の人々の言葉から探ってみます。
公家らしからぬ言動
徳富蘇峰(とくとみそほう)が書いた『岩倉具視公』によると
身長は160㎝ほど。日本酒が好きで蟄居中もよく飲んでいた。食事は、野菜や魚類が好きで、京都料理を好み、中でも亀料理が一番好きだった
とあります。
亀料理って?!
いったいどんな京都料理なのでしょう?
すっぽんかな?
岩倉は、煙草も好んだようで、明治以降に西洋煙草が入ってきても、日本煙草を愛喫していたと言われています。
自邸をとばく場に
江戸時代の下級武家の屋敷には、生活費を賄うためにとばく場を開いているところもありました(時代劇でもよく見かけますよ)
岩倉も蟄居中は、お金に困ることも多く自邸の一角にとばく場を開いていたそうです。
無頼の徒と公家、あまり結びつかない図ですが、岩倉に限っては、想像できそうですね。
勝海舟も一目置いた
勝海舟と言えば、歯に衣着せぬ物言いで、徳川家を守り、江戸城無血開城をやり遂げた人物です。
その勝にしてこのように言われた岩倉は、なんともスケールがでかい…のかな?
度量が大きくて、公卿の中でも珍しい人物だった。俺にさえ平気で政治上の事をいろいろ意見を求めてきた 『海舟全集』
一世の豪傑
伊藤博文も、岩倉具視について大変な評価をしています。
大変に聡明な人で、決断力・胆力で弁もたつ。もし彼が、建武の新政の世に生まれていたなら、足利尊氏と新田義貞を戦わせるまでもなく、王政復古を成し遂げていただろう。岩倉公は、実に一世の豪傑であった
鎌倉時代末期に後醍醐天皇が、天皇の親政を目指した建武の新政は、たった2年半で崩壊し、南北朝時代そして室町幕府へと武家政権が続くことになりました。
もし岩倉が、後醍醐天皇の参謀として存在していたら、この時点で天皇の政権は不動のものとなり、以後の室町・戦国・江戸時代は、全く変わっていたかもしれない。
岩倉具視のスケールはでかい!
と、伊藤博文は言いっているのです、多分!
ちょんまげ、どうする?
こんなすご~い岩倉具視ですが、お茶目?なところもあります。
文明開化の時代となり、その象徴として”ちょんまげ”をきることを推奨したのが、木戸孝允(きどたかよし)です。
髷は、外国人から見るととても異様で、文明が遅れているとみなされていたのです。
外国は、そんな日本と対等に接してくれるだろうか?
明治8年に出された散髪脱刀令により、髷を切り落とすことが進められていた時期に、岩倉は頑として髷を切りませんでした。
木戸が、明治天皇に髷を切ってもらおうとしたら、岩倉は猛反対。
そんな中で、岩倉は使節団の大使として、欧米へ。
アメリカのサンフランシスコでは、岩倉はアメリカ人に大人気です。
気を良くしていた岩倉ですが、実はちょんまげが馬鹿にされていたと知ります。
岩倉具視、断髪す!
頑固なくせに、行動が早い。
帰国後、明治天皇も髷を切ったことで、民衆も髷を落とす者が増えたそうですよ。
五百円札の顔
平成生まれ以降の方は、御存じないかもしれませんが、岩倉具視の肖像画は、五百円札に使われていたのです。
製造は、昭和26年(1951年)~昭和60年(1985年)
500円硬貨ができる前まで、岩倉具視は私たちの身近にいたのです。
岩倉具視の登場する作品
私が幕末に興味を持ったのは、新選組だったため、岩倉具視は敵方ともいえるため、あまり好きではありませんでした(単純!)
でも、大河ドラマをきっかけに岩倉具視に興味を持って調べてみると、なんともすごい人でした。
やはり食わず嫌いはいけませんね。
これからも自分の印象や、一般論に左右されることなく、いろんな歴史人物に迫ってみたいと思います。
最後はいつも通り、岩倉具視が登場した作品を紹介して終わります。
岩倉具視 言葉の皮を剥きながら 永井路子
幾度も挫折しながら、いかにして岩倉が歴史の舞台を回したのか。
小説のような、評伝のような、不思議な作品です。
特に明治維新までの岩倉の心理状態や、孝明天皇毒殺疑惑などにも触れていて興味深いです。
岩倉具視: 幕末維新期の調停者 坂本一登
政治の表舞台に立つ直前から亡くなるまでの岩倉が描かれています。
年を追って、日記的に書かれているので、岩倉の行動と明治維新の姿がよくわかります。
心情的なものはあまり描かれていませんが、岩倉の功績を知ることのできる一冊だと思います。
岩倉具視 (幕末維新の個性) 佐々木克
史実の中の岩倉を追った本です。
幕末から明治時代における岩倉の交渉力・調整力の高さを評価した興味深い本です。
明治以降の岩倉の活躍もわかりやすいです。
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