新選組 山南敬助の生涯 山南はなぜ新選組を脱走したのだろう

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新選組といえば、あなたはまず誰を思い浮かべますか?

局長の近藤勇、イケメン鬼副長土方歳三、剣の天才沖田総司。

それとも?

今回紹介する山南(やまなみ・さんなん)敬助は、江戸試衛館のころから近藤らとともに暮らし、新選組の結成メンバーです。

ですが、ほかの初期メンバーに比べると印象が薄いようです。

大河ドラマ「新選組!」では、堺雅人さんが演じたことで初めて知った人もいるくらい。

そんな控えめな山南さん、いったいどんな人だったのでしょう。

今回は、山南敬助の生い立ちから命を終えるまでを、個人の見解も交えながらできるだけわかりやすく解説してみたいと思います。

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山南敬助 近藤勇に出会う

山南敬助は、天保4年(1833年)、仙台藩士の子として生まれたと言われています。

近藤勇より一つ、土方歳三より二つ年上です。

何歳のころか、はっきりとわかりませんが、山南は仙台藩を脱藩した後、江戸に出て剣術の修行をしていました。

1853年にペリーが浦賀に来航して以来、多くの武士が時勢の流れを感じ、剣術の修行に力を入れるようになっていました。

山南も何かしらの目標をもって江戸での剣術修行を始めたのでしょうか。

山南は、はじめ小野派一刀流に入門しました。

小野派一刀流で免許皆伝となると、次は千葉周作の門人となり、北辰一刀流を学んでいます。

いわゆる一流の剣の流派を学んできた山南が、なぜ天然理心流を知ったのか、そのあたりのことはわかりません。

ですが、山南は近藤と出会いました。

山南、近藤に敗れる

剣術の修行をする多くの武士と同じように、山南は、自分の剣の腕を試すために、他流試合を申し込む中で、近藤勇の天然理心流試衛館道場にたどり着きました。

山南は試衛館の玄関に立っていた。
出てきたのは、可愛い少年。
少し戸惑いながら、他流試合を申し込むとその少年は、しばらく待つようにと言い残して奥へ入っていった。
「お待たせしました、どうぞ」
先ほどの少年が道場へ案内してくれる。
山南の通う千葉道場とは比べものにならない広さ、粗末な道場だ。
何人かが稽古をしているが、武士は見当たらない。
上座に座っているのは岩のような顔の男。
道場主か?
山南が自己紹介すると、その男はにっこり微笑んで言った。
「試衛館道場主の近藤勇です」
笑うと途端に親しみやすい顔になる。
「総司、山南さんに防具と竹刀を渡して差し上げなさい」
「はい!」
先ほどの少年だった。
「どなたがお相手をしてくださるのですか」
(まさか町人が相手ではあるまいな)
「私がお相手をいたします」
近藤が言った。
江戸四大道場の1つ千葉周作の北辰一刀流道場で学んでいた山南にとって、天然理心流は、ただの田舎流派、山南はすこしなめていた。
ところが、…。

山南は近藤に敗れた。
近藤の気迫と腕前に圧倒されてしまった。
呆然とする山南。
近藤はすでに防具を外し、にこにこしている。
「まいりました」
「いえいえ、さすが北辰一刀流、洗練されていますね。ただもう少し気組(気合)がほしい」
近藤は山南を奥の座敷に案内した。
総司と呼ばれていた少年が、お茶を持ってくる。
今までにない居心地の良さ。
山南は近藤の偉ぶらない人柄に魅かれていた。

山南、試衛館の門人になる

山南は、初めて近藤に敗れてからしばらく、時々試衛館に通い、近藤の指導を受けます。

近藤のおおらかな人柄、モノに動じない胆力。

山南は次第に近藤に感服するようになり、やがて試衛館に居つくようになりました

よく言えば、近藤の門人、悪く言えば居候です。

試衛館には、山南のほかにも居候兼門人がほかにもいました。

土方歳三・永倉新八・原田左之助・藤堂平助たちです。

土方以外は山南と前後して試衛館に居ついたようですが、その時期ははっきりしていません。

前述の少年、沖田総司は正式な近藤の門人で、7歳のころから試衛館で暮らしていました。

近藤の正式な門人はもう一人います。

先代から試衛館で修業をしている井上源三郎です。

山南を合わせて、7人。

後の新選組結成メンバーがそろいました。

斉藤一も試衛館へ出入りし、交流がありましたが、あるいきさつで、ともに京へ上っていません。

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新選組結成

文久3年(1863年)2月

将軍家茂の上洛に伴う警護のため、清河八郎が浪士隊を結成します。

山南は、近藤ら試衛館メンバーとともにこれに参加し、京へ上りました。

浪士隊の本部だった新徳寺

しかし清河は、攘夷実行のため朝廷へ直接働きかけたため、幕府がこれを阻止するため再び浪士組を江戸へ帰すことにします。

これに従わずに残ったのが近藤以下試衛館の仲間です。

「初志貫徹、将軍の警護が自分たちの仕事だ」

近藤たちは、京に残りました。

京の残った浪士は、ほかにも数名ありました。(23名とも13名ともいわれています)

京残留組は、京都守護職会津藩に働きかけ、会津お預かり壬生浪士組と名乗りました。

その後、芹沢鴨率いる水戸浪士一派と近藤一派が主導権を握り、ここに後の新選組が結成されました。

文久3年4月ごろのことでした。

山南は、土方歳三とともに副長になります。

局長は、芹沢鴨・近藤勇、副長はほかに新見錦(芹沢派、後に局長になる)です。

芹沢一派の掃討の参加

壬生に屯所をおいて、市中見回りなど、京の町を守っていた新選組ですが、局長芹沢鴨のあまりの素行の悪さに、評判がどんどん悪くなっていました。

目に余る粗暴ぶりに、たまりかねた会津藩は、芹沢一派の暗殺を近藤たちにひそかに命じます

文久3年9月16日深夜

屯所として借り受けていた八木邸の離れで泥酔している芹沢鴨らを斬殺。

山南もこの暗殺に加わっていたといわれています。

岩城升屋事件

文久3年10月

将軍徳川家茂警護のため、新選組は大坂に滞在していました。

その際、呉服商岩城升屋に不逞浪士が数名が押し入る事件が起きました。

山南は土方とともに岩城升屋へ急行、激戦の末不逞浪士を撃退しています。

この時に山南が使った「播州住人赤心沖光作」の銘が入った刀が、激しく刃こぼれして折れてしまいました。

この刀の押し型が、土方により多摩の小島鹿之助のもとに送られ、現在も小島鹿之助資料館に保存されています。

この事件で、山南は左腕を負傷、土方は負傷した山南をかばって戦い続けたと伝えられています。

山南の傷がどの程度のものだったのかは、明らかではありませんが、この事件の後、山南の新選組での活動は、ほとんど表にでていません。

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新選組の中の山南

新選組結成当時は、土方と並び副長として浪士の取り締まりにもあたっていたようですが、前述の岩城升屋事件以来、山南の活動は、ほぼ不明です。

元治元年(1864年)2月ごろ、江戸以来の知り合いが上洛した際も、山南とは会っていないと伝わっています。

「病に伏し、会わず」

知り合いの日誌にはそのように書かれているそうです。

同年6月5日の池田屋事件でも、山南は出動せず、屯所の留守を預かっていることになっています。

どのような病だったのか、それともほかに理由があるのか。

とにかく山南の新選組での存在感は、日に日に薄くなっていたようです。

伊東甲子太郎の入隊

元治元年(1864年)10月

江戸で北辰一刀流の道場を開いていた伊東甲子太郎が、同門の新選組隊士藤堂平助の誘いを受け、門人らと新選組に入隊します。

山南は、自分の思想に近い伊東の入隊に希望を見ていたようです

弁が立ち、穏やかで、土方の厳罰に対しても意見をする伊東の新選組での人気はどんどん高まり、局長の近藤をもしのぐのではないかという勢いでした。

山南は近藤や土方よりも伊東と歓談することが増え、その議論に同意し、傾聴していたことが多くなっていきました

山南は、近藤・土方の意のままになり、幕府の走狗となっている新選組を、伊東を中心とした尊王攘夷の集団にしたかったのかもしれません。

しかし、ことは簡単には運びませんでした。

山南、新選組の屯所移転問題を憂う

新選組結成以来屯所としてきた壬生の八木邸と前川邸が手狭になってきたことから、屯所の移転が進んでいました。

移転先は西本願寺

当時西本願寺は、不逞浪士たちを匿っているという噂があり、その成り立ちからも幕府に批判的だと思われていました。

西本願寺は、豊臣秀吉から寺地の寄進を受け、親鸞聖人の娘覚信尼が開基した本願寺が始まりです。

秀吉没後、徳川家康の支援を受け、もう一つの本願寺が開かれます(東本願寺)。

これは、浄土真宗本願寺の勢力を削るために家康がとった政策で、その後東本願寺は家康に恩を感じ、元の本願寺(西本願寺)は、ひそかに家康に対する反発心を持ち、それ以来西と東は対立関係にあると考えられています。

もちろん現在はそんなことありませんよ。あくまで幕末のころのお話です

西本願寺 阿弥陀堂 京都フリー写真素材

土方は、新選組の屯所を西本願寺に置くことで、反幕府派をけん制し、西本願寺を監視し、あわよくば新屯所建設の資金をも出させようとしていた節があります。

実際、西本願寺屯所後に移転した不動堂村の屯所は、西本願寺が資金を出して建てたと言われています。

この西本願寺への屯所移転について、山南は反対していました

「曲がりなりにも、御仏にお仕えする西本願寺境内に、新選組のような血の匂いのする集団が移り住むなどとんでもない」

こんな風に思っていたのではないでしょうか。

でも山南の意見は、受け入れられることがありませんでした。

山南、新選組を脱走する

西本願寺への屯所移転での意見対立により、山南と近藤・土方の対立は一層深くなっていきます。

以前にもまして伊東との論議を重ねる山南。

それを猜疑の目で見る近藤たち。

そして。

元治2年(1865年)2月22日

山南敬助は、屯所を脱走しました。

自室には置手紙があったと言われています。

すぐに追手がかかり、山南は大津で発見されます。

追ってきたのは、山南を慕っていた沖田総司

「山南さん、どうか見つからないでくれ」
祈るような気持ちで総司は馬を走らせていた。
大津まで行って見つからなければ、帰るつもりだった。
できるだけゆっくりと、できるだけ見つけないように。
そうしていたのに、山南は大津にいた。
まるで総司を待っていたかのように。
その夜、山南と総司は大津で泊まった。
「私を斬って逃げてください」
「沖田君を斬れる腕は、私にはないよ」
寂しく笑う山南に、総司は何も言えない。
「頼みがある。介錯は、沖田君がやってくれ」

翌日、山南と沖田は、屯所へ帰ってきます。

前川邸の一室で、処分を待つ山南のもとへ、永倉新八たち数名がひそかに行っています。

悄然たる親友の姿に暗涙をもよおし、

「山南氏、あとのことはわれわれがしょうちいたす。ふたたびここを脱走されてはどうじゃ」

とすすめると、かれは首を左右にふって、

「ご芳志はかたじけないがとても脱走しきれないと存ずるから、すでに切腹をかくごしてござる」と決心面(おもて)にあらわれてみえた。     『新選組顛末記』より

山南は沖田総司の介錯のもと、切腹をしました

元治2年2月23日

奇しくも2年前のその日は、大いなる夢をもって試衛館の仲間たちと京へ到着した日でした。

前川邸

伊東甲子太郎は、山南をしのび弔歌を詠んでいます。

「春風に 吹き誘はれて 山桜 散りてぞ人に 惜しまるるかな」

山南敬助とはどんな人だったのか

子母澤寛氏の『新選組始末記』では、山南についてこのように書かれています。

山南敬助は(中略)丈はあまり高くなく、色の白い愛嬌のある顔でした。子供が好きで、私などとどこで逢ってもきっと何か言葉をかけたものです。

”八木為三郎老人壬生ばなし”

温厚で優しく、壬生の子供たちや女性からも慕われていたと伝わっています。

壬生の界隈では「親切者は山南・松原」と言われ、隊士たちからも「サンナンさん」と呼ばれて親しまれていたといいます。

切腹直前 明里との悲話は創作⁉

2004年の大河ドラマ「新選組!」での山南敬助切腹のシーンと直前の明里との別れは、とても悲しくて切ないお話でした。

実は、明里との別れの場面は、史実ではないようです。

『新選組始末記』だけに描かれたシーンで、著者の子母澤寛氏の創作だと考えられています。

ただ、島原の天神(太夫の次の位)だった明里と恋仲だったのは事実のようです

明里のその後はわかっていませんが、1人の男性山南敬助を大切に想う女性が、そして山南が心から癒される女性はいたのです。

山南敬助ゆかりの場所

山南敬助は切腹した後、屯所近くの寺院に葬られました。

光縁寺

新選組屯所跡前川邸から東へ少し歩いたところにある光縁寺に山南敬助のお墓があります。

寺紋と山南の紋が同じだったことで菩提寺になったそうです

光縁寺には、沖田総司縁者のお墓(恋人では?)や松原忠司ら数人の新選組隊士のお墓もあります。

拝観時間 9:00~17:00

拝観料 100円

旧前川邸

八木邸とともに新選組の前身壬生浪士組の時からの屯所。

山南敬助が切腹したのは、旧前川邸の一室です。

毎年3月第2日曜日に「山南忌」が行われています。
旧前川邸公式サイト

八木邸

浪士隊として江戸から京へやってきた山南たちの宿泊先となった八木邸。

その後も新選組屯所として使われていました。

芹沢鴨らの暗殺現場となった離れはそのまま残っていて、実際に入ることができます

公開時間 9:00~17:00

拝観料 ガイド・抹茶・屯所餅つき

大人 1100円 小人 800円

八木邸公式サイト

山南敬助が登場する作品

山南敬助が登場するおすすめの作品を紹介します。

新撰組 山南敬助   童門冬二

山南敬助をメインとした小説。

山南の新選組に対する理想と現実のギャップに悩む心理や土方との対立、明里との恋などが描かれています。

どちらかと言えば初心者向けの本だと思います。

この小説の山南像には、共感しづらい人も多いようで、実際私も「この山南はちょっと優柔不断だな」と感じました。

黒龍の柩     北方謙三

新選組結成以後の土方歳三を主人公とした小説ですが、この本での山南敬助、私はとても好きです。

土方との関係も、二人以外にはわからない信頼関係があります。

山南自身も覚悟を持った行動ができる人物として描かれています。

山南が登場するのは、ほぼ上巻のみですが、できれば下巻も読んでいただきたいです。

新選組 幕末の青嵐    木内昇

新選組幹部となった隊士を中心に、それぞれにスポットを当てた短編になっています。

その短編が新選組の歴史に沿って書かれ、全体的な流れもわかるようになっています。

山南敬助の章は、新選組結成前・新選組創世期・全盛期・山南自身の最期と4つの章があります。

歴史に名を残した彼らも、悩み、考え、迷う一人の人間だったとなんだか切なくなるような小説です。

新選組 試衛館の青春      松本匡代

土方歳三、沖田総司、斎藤一を中心とした試衛館時代から上洛までの話です。

試衛館に居候していた彼ら(山南敬助・永倉新八・藤堂平助・原田左之助・井上源三郎)が生き生きと暮らしている様子がとても心温まります。

みんな若く、優しく、ちょっと血の気が多く、でも仲がいい。

山南と土方は、協力して貧乏道場試衛館の生計を立てています。

何か問題があれば、試衛館の頭脳である二人が協力して解決しようとします。

二人がいい関係であればあるほど、新選組結成後の二人の心の内を思って切なくなることも。

上巻は、ひたすら青春、下巻は少し切なく悲しい部分もありますが、とても心癒される話です。

終わりに

今回は、山南敬助について紹介しました。

山南の思慮深く、それ故に悩み多き人生を少しでも感じていただけたら幸いです。

大河ドラマ「新選組!」以来、山南産に興味を持つ方が増えてきていますので、これからは山南敬助を主人公として作品がもっと出てくるのを楽しみに待ちたいと思います。

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