伊東甲子太郎 志半ばで倒れた志士は本当に新選組を裏切ったのか

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元治元年秋、1人の人物が上洛しました。

彼を慕う仲間とともに新選組に入隊したのは、伊東甲子太郎

大いなる志をもって新選組隊士となった伊東でしたが、数年後にその志が無残に絶たれることなど、思いもしていなかったでしょう。

今回は、新選組参謀・伊東甲子太郎の生涯を追いながら、彼が本当に目指したものを探ります。

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伊東甲子太郎の生い立ちと経歴~新選組入隊まで~

天保5年(1835年)

伊東甲子太郎は、現・茨城県かすみがうら市の常陸志筑しづく藩士・鈴木専右衛門忠明の長男として生まれます。

名は大蔵おおくら

父の隠居後、家督を相続しますが、父の借財が明らかになり家名断絶、一家は領外へ追放されました。

大蔵は、水戸へ遊学し、水戸藩士・金子健四郎(神道無念流)のもとで剣術修行をしながら、水戸学を学びます。

水戸学を学ぶ中で、大蔵は次第に勤皇思想に傾倒していったようです。

江戸・伊東道場へ

大蔵は、水戸から江戸へ出てくると、北辰一刀流の伊東道場に入門しました。

やがてその力量を認められ、大蔵は伊東の娘・みつと結婚し、婿養子となり、伊東大蔵と名乗るようになります。

師である伊東が亡くなると、大蔵は道場を継ぎ、剣術とともに攘夷論者としても活躍の場を広げていきました。

江戸深川中川町にあった伊東大蔵の道場は、塾生・門下生も多く小旗本並みの規模があったと言われています。

のちの新選組隊士・藤堂平助は、伊東の門人として道場に通っています。

その縁で、藤堂からもたらされた新選組入隊の誘い、大蔵は、はじめは乗り気ではなかったらしいです。

しかし、再三の誘い、挙句に新選組局長・近藤勇自らが訪ねてきたこともあり、大蔵は新選組入隊を決めます。

近藤に先んじて、大蔵を誘いに来ていた藤堂平助は、この時期新選組のやり方に不満を持っていたようです。

永倉新八の『新撰組顛末記』によると、藤堂は大蔵に対し

「新選組を、いずれは伊東を隊長とした尊王攘夷の集団にしたい」

「近藤たちは始末しなければならない」

などと言っていたそうです。

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伊東甲子太郎 新選組入隊

元治元年(1864年)11月

弟の鈴木三樹三郎、盟友の加納鷲雄・篠原泰之進・服部武雄、門人の中西昇・内海二郎ら9名とともに上洛した大蔵は、この年(甲子:きのえね)にちなみ、名を甲子太郎(かしたろう・きねたろう)と改名しました。

新選組では、参謀兼文学師範を任じられます。

容姿端麗で弁舌爽やか、温厚な伊東は、瞬く間に隊士たちの心をつかみます。

伊東甲子太郎肖像画:Wikipedia

局長の近藤も、伊東の入隊を喜んでいましたが、副長・土方歳三は伊東を新選組の規律を乱す異分子と考えていたようです。

新選組の動揺

新選組の当初は、尊王攘夷の先鋒として働く方針だったと考えられます。

しかし、京都守護職会津藩のお預かりになったことにより、幕府寄り(佐幕派)の尊王攘夷を旗頭となっていきました。

その結果、幕府に対抗・反抗する長州藩を敵として、長州藩と考えを同じくする浪士たちを捕縛することが主な仕事になっていきます。

伊東が入隊したころの新選組は、池田屋事件により完全に幕府側につき、尊王攘夷派とは敵対するような図式になりつつありました。

伊東ははじめ、このような新選組活動の方向転換を考えていたようです。

隊内で思想改革をしながら、近藤ともたびたび攘夷論などを語り合っていたと言われています。

しかし、すでに幕府内でひとかどの論客として地位を固めつつあった近藤は、次第に伊東を疎ましく思うようになります。

隊内での伊東の人望の高さも気に入りません。

新選組の中に少しずつひずみが生まれてきます。

山南敬助の脱走・切腹

元治2年(1865年)2月22日。

新選組総長・山南敬助が隊から脱走しました。

新選組結成メンバーで、近藤勇の試衛館道場からの仲間だった山南でしたが、伊東が入隊以降は、近藤・土方よりも伊東と歓談することの方が多くなっていました。

穏やかな性格で、勤皇の思想も持っていた山南は、幕府の走狗となり下がっていた(山南にはそう見えていたようです)新選組を正したい気持ちがありました。

伊東に近づいたのは、山南自身の考えに近いと考えていたからだと思われます。

しかし、山南は1人で行動を起こしてしまいました。

翌23日に屯所へ連れ戻された山南は、隊の掟に従い、切腹して果てました。

伊東は、山南の死に際し、歌を詠んでいます。

春風に吹きさそわれて山桜ちりてそ人におしまるるかな
(春風に吹かれて散ってゆくからこそ山桜は人に惜しまれる:山南を失ってはじめてその存在の大きさに気づくものだ)

吹風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし
(吹く風にも散らされずしぼんでゆくより、跡形もなく散った方が勇ましい:志を曲げてまで生き長らえるよりは、逆風に立ち向かって死んでいく方(山南)が勇ましいではないか)

皇(すめらぎ)のまもりともなれ黒髪のみたれたる世に死ぬる身なれは
(魂となっても皇:天皇を守ってくれ。黒髪のように乱れたこの世の中で倒れた身なのだから)

あめ風によしさらすともいとふへき常に涙の袖にしほれは
(たとえ風雨にこの身をさらしても構わない。あなたの死を悲しんでいつも涙で袖を絞るほどなのだから)

同じ志を持っていた山南を惜しむ伊東の、山南への弔辞であり、近藤・土方への批判だったのかもしれません。

結成以来の同志をも死に追いやる新選組のやり方を見て、伊東は新選組ごと方向転換をすることはあきらめていたのではないでしょうか。

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御陵衛士 結成

慶応元年(1865年)・慶応2年(1866年)と伊東は、近藤の芸州(広島)出張に随行しています。

出張中に伊東が密かに芸州方面を探索していたとも言われています。

来る決行の日に備えて、何かしらの下準備をしていたのかもしれません。

しかし、新選組を脱走すれば、山南のように殺される可能性が大きい…。

伊東は、考えました。

近藤派の分裂を図った?

伊東にとって最大の難関は、おそらく土方歳三だったでしょう。

近藤は、おのれを論客だと勘違いしている。
だからこそ正攻法で論破すれば、こちらの思うように動かせるかもしれない。
しかし土方は違う。あれは、ゆるぎない信念を持っている。世の動きなどに左右されない。
なら…どうする。

慶応3年(1867年)正月

伊東は、新選組結成以来のメンバーである永倉新八と土方に近いとみられる斎藤一を誘って島原へ行きます。

無断で外泊をすれば切腹されかねないと知りながら、伊東は2人とともに島原に4日間も居続けました。

島原遊郭の大門

屯所に帰った3人は、それぞれ謹慎させられます。

切腹覚悟の居続けに土方は、どんな対応を取ったのか。

怒り心頭の近藤を説き伏せ、謹慎処分のみに留めたのです。

土方のこの処分を伊東はどう考えていたのでしょうか。

もちろんもともと伊東が、新選組幹部の分裂を狙っていたかどうかはわかりません。

ただ、土方が一筋縄ではいかないことは、改めてよく分かったのではないでしょうか。

伊東甲子太郎 離脱する

伊東は、この事件の後しばらくすると、新選組の許可を得たうえで西国・九州の遊説に行っています。

薩摩藩などとつなぎをつけるためと考えられます。

遊説から帰国した伊東は、近藤・土方に新選組からの離脱を申し出ました。

「”脱退”ではなく”離脱”です。表向きは新選組から離れますが、新選組の別動隊として、薩摩の動向を探っていこうと思います」

「離脱だと?」

「はい」

「新選組隊士という身分から外れることで、薩摩とも接触しやすくなります」

「よく考えたもんだな」

不敵に笑う土方を前に、微笑する伊東。
近藤は苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。

慶応3年(1867年)3月20日

伊東は、昨年(慶応2年)暮れに崩御された孝明天皇の御陵警備という任務を拝命されたという名目で、新選組を離脱、御陵衛士を結成しました。

ともに新選組を離れたのは、伊東とともに入隊したメンバーの他に藤堂平助・斎藤一も含まれていました。

斎藤は、土方の命によりスパイとして潜り込んだと言われています

東山高台寺月真院を活動拠点としたことから、彼らは高台寺党とも呼ばれています。

伊東は名を摂津、伊東摂津と改めました。

伊東の目指したもの

御陵衛士を結成した伊東は、九州大宰府へ向かったり、尾張へ出張したり、精力的に動き出します。

自らの考えを実現化するために、朝廷へ4通もの建白書も提出しています。

特に大政奉還後に提出した建白書では、積極的に開国し、富国強兵策のような考え方を表しています。

徳川幕府の代わりに、朝廷中心の政府を作り、広く天下(多くの大名家臣など)から人材を求めつつ、徳川家にも政権に参加させるという内容は、坂本龍馬の考えに近いように思います。

桂浜にある坂本龍馬像

畿内の5ヶ国を朝廷の直轄領とすること、朝廷直属の兵力を整備するなど、伊東の個性的な考えも注目する部分です。

徳川家を倒すような武力行使より、もっと穏やかな政権移行を目指していたようです。

もしかしたら伊東は、本当に新選組の別動隊として、いずれ誕生する新政権に新選組とともに参加するつもりだったのかもしれません。

今まで私は、新選組目線での伊東甲子太郎という人を見ていました。

伊東の建白書の事は全く知らず、彼がこのような考えを持っていたと知り、とても驚いています。

もし、新選組が、もっと柔軟に動ける集団だったら、近藤・土方の武士への強烈なあこがれがなければ、伊東や新選組の結末は、全く違ったものになっていたかもしれません。

多分難しいでしょうが。

 

伊東甲子太郎 暗殺される

慶応3年11月15日

京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されます。

下手人(犯人)は新選組だと考えられていました。

残されていた刀の鞘や下駄が新選組隊士・原田左之助の物だと伊東が証言したためだという説がありますが、あまり信用できないように思います。

それでも伊東の周辺の人々は、新選組を警戒していたかもしれません。

「次は伊東さんだ」

最期まで近藤たちを説得しようとしていた?

11月18日夕刻

伊東は、近藤の妾宅にいました。

かねてより要望していた御陵衛士の活動資金が用意できたという知らせがあったためとされています。

御陵衛士の面々は、伊東がたった1人で近藤に会いに行くことに反対しました。

しかし、伊東は1人でした。

伊東の運命は、これで決まってしまいました。

彼は、懐に5通目の建白書の下書きを忍ばせていたそうです。

近藤を説得するつもりだったと考えられます。

終始上機嫌に伊東の話を聞いていた近藤の様子に、伊東は説得が成功したと思っていたのかもしれません。

勧められるまま杯を重ね、したたか酔った伊東は、その帰り道、待ち伏せしていた新選組隊士に襲われました。

物陰から突然繰り出された槍に喉を刺しぬかれたのです。

瀕死の重傷を負いながら、伊東は刀を抜き、隊士1名を斬り捨てると油小路通りを北へ逃げます。

本光寺付近で力尽きた伊東は、門前の石に腰を下ろし、絶命しました。

享年34歳。

伊東甲子太郎受難の地

御陵衛士の激闘

伊東の遺体は、七条油小路付近にまで引きずられ、おとりとして放置されます。

月真院で、伊東暗殺の知らせを受けた御陵衛士7名が油小路へ急行。

伊東の遺体を駕籠に収容しようとしたところに、待ち伏せしていた新選組隊士が襲い掛かりました。

御陵衛士3名(藤堂平助・服部武雄・毛内有之助)が討死しました。

伊東と御陵衛士3名の遺体は、数日間晒された後、新選組の菩提寺・光縁寺に葬られました。

新選組が京から去ったのち、御陵衛士の生き残りの手により、彼らの遺体は泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されています。

油小路暗殺事件の影響

凄惨を極めた油小路事件には、朝廷までもが動揺しました。

新選組の隊士を切腹させることがまで決まっていたらしいですが、新選組が京から去ったため、実行されませんでした。

明治以後には、伊東暗殺の実行犯・大石鍬次郎は、その罪により死罪に処されています。

大正7年(1918年) 伊東甲子太郎、従五位を贈位されます。

昭和7年(1932年) 伊東甲子太郎は、靖国神社に合祀されました。

伊東甲子太郎は、新選組隊士としてではなく、明治維新に貢献した志士として扱われたのです。

伊東甲子太郎おすすめ2作品

あくまで私の個人的意見としておすすめするのはこちらです!

大河ドラマ『新撰組!!』

今回の伊東甲子太郎像に最も近いのは、大河ドラマ『新撰組!!』で谷原章介さんが演じた伊東だと思います。

すらっとした上品で穏やかなイケメン。

弁は立つけれど、決して偉そうじゃない。

それまでの伊東は、たいてい悪役顔かインテリ嫌味顔でした。

伊東甲子太郎のイメージを柄っと変えてくださった谷原甲子太郎は、もしかしてすごいのかも。

今更ながらそう思っています。

『銀魂』真選組動乱編

もう一つの作品は、またまた登場『銀魂』です。

ごめんなさい!『銀魂』真選組がたまらなく好きなのです

「真選組動乱編」での土方十四郎と伊東鴨太郎のぶつかり合いは、史実とかけ離れているかもしれませんが、心を打たれます。

実写映画化では、伊東鴨太郎役の三浦春馬さんは、まさにはまり役。

鴨太郎の哀しい過去と真選組に対する屈折した愛情・友情を見事に演じられていました。

柳楽優弥さん演じる土方十四郎との命がけの戦いは、切なくて、でも侍らしく、とてもコメディー映画(?)とは思えませんでした。

『銀魂』は、SF時代劇の人情コメデイーアクション漫画なのです。知らんけど

フィクションでありながら、どこか史実と通じる部分があるように思う鴨太郎。

一度ご覧ください。

アニメ『銀魂』真選組動乱編 101話~105話

終わりに

今回は、新選組入隊、脱退ののち御陵衛士を結成した伊東甲子太郎についてお話ししました。

尊王攘夷の志を持ち、坂本龍馬と同じように平和的な政権移行を考えていた伊東甲子太郎。

たまたま藤堂平助という新選組幹部が門人であったことで、彼は新選組に入隊しました。

自らの志を新選組で果たそうと考えていた伊東でしたが、近藤・土方によって固められていた新選組を変えることはできず、無念な最期を迎えてしまいました。

例えば伊東が、海援隊に入っていたら…。

竜馬は暗殺されず、明治維新は違った形になっていたかも。

なんて考えるのは、日本史好きのあるあるかな?

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