2021年の大河ドラマ『青天を衝け』
吉沢亮さん演じる渋沢栄一にスポットを当てたドラマで、私も毎週楽しみにしています。
そんな中で、大好きな俳優さん・堤真一さんが演じていらっしゃる”平岡円四郎”なる人物がちょっと気になる。
ちゃきちゃきの江戸弁で一橋慶喜にも、歯に衣着せぬ物言いをする格好いいお侍さん。
江戸弁でまくしたてる幕臣と言えば、勝海舟しか浮かばない…。
幕末には結構詳しいつもりだった私は、お初にお目にかかる人でした。
”平岡円四郎”って、いったい誰だ?
ということで、調べてみました。
結論、この人がずっと慶喜の側近として助言をしていたら、あの戊辰戦争はなかったかも。
もしあったとしても、全く違った結末になっていたかもしれないと思うほど重要な人でした。
前置きはこのくらいにして、では平岡円四郎さんを紹介します!
平岡円四郎の生涯
文政5年(1822年)10月
平岡円四郎は、旗本・岡本忠次郎の四男として生まれました。
その後、同じ旗本である平岡文次郎の養子となって、家督相続します。
円四郎は、若いころから頭が切れて、聡明。
聡明すぎて周囲からは、”変人”扱いされるほどだったと言います。
しかし、その円四郎の才覚を見出したのが、水戸藩士・藤田東湖と幕臣・川路聖謨(としあきら)です。
円四郎、抜擢される
弘化4年(1847年)
水戸藩主・徳川斉昭の子である慶喜が、一橋家へ養子に入りました。
慶喜は、文武両道の才気あふれる若者でしたが、一橋家では、心を許せる家臣がいませんでした。
かねてから、円四郎の才覚を認めていた藤田東湖らは、彼を慶喜の小姓として推薦しました。
しかし、円四郎自身は、この栄誉をあまり喜んではいませんでした。
慶喜は、天保8年(1837年)生まれの17歳。
円四郎より15歳も年下です。
それに”変人”と言われるくらいの円四郎は、偉い人のそばでこまごまと雑用をするなど性に合わないと思っていたのではないでしょうか。
でも、一橋家に仕えるという名誉を断るなんて、考えられないことです。
不承不承ながら、円四郎は慶喜のおそばに仕えることになりました。
円四郎、慶喜に惚れる
始めはいやいやのお勤めだった円四郎ですが、慶喜の人となりがわかってくると次第に彼に魅かれていきます。
慶喜の方も、ぶっきらぼうな円四郎に戸惑いもあったでしょうが、彼の聡明さと飾らない気性を愛するようになります。
慶喜は、円四郎の不遜にも見える振る舞いや物言いに対しても、咎めるようなことはせず、側近として必要な知識を自ら教えたそうです。
当時の殿様ではありえないような慶喜の行動に、円四郎は心を尽くして使えるようになっていきます。
どちらも聡明で、当時の常識にとらわれないところがあるという共通点が、円四郎と慶喜を強くつなげていたのかもしれません。
折しも幕府は、ペリーの浦賀来航と病弱な第13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題で大騒ぎ。
特に次の将軍を選ぶにあたり、英邁のうわさが高い慶喜が注目されていました。
福井藩主・松平慶永(春嶽)を中心とした慶喜の将軍就任支持勢力(一橋派)とともに、円四郎も活発に動き回ります。
しかし、時期将軍は、紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)に決定。
円四郎もがっかり。
ただ、将軍就任に乗り気でなかった慶喜自身は、この決定を受け入れていたようです。
円四郎、失脚する
将軍継嗣問題は、とりあえず片付いたものの、問題はまだまだ残っています。
アメリカからの再三の要求に、当時の大老・井伊直弼は、朝廷の許可も得ずに「日米修好通商条約」を締結してしまったのです。
これには、慶喜も怒ります。
尊王(天皇を敬う)思想が強い水戸藩主・徳川斉昭の教育を受けてきた慶喜ですから、天皇をないがしろにするような行為を無視することはできなかったのではないでしょうか。
井伊直弼のやり方に抗議した慶喜や徳川斉昭は、謹慎処分となってしまいます。
これをきっかけにいわゆる「安政の大獄」へと発展します。
円四郎たち一橋派も処分され、円四郎は甲府へ左遷されました。
以後文久2年(1862年)までの3年間を「甲府勝手小普請」という閑職に甘んじます。
円四郎、復活!
円四郎が甲府へ左遷させられて間もなく、安政7年(1860年)3月、井伊直弼が桜田門外で暗殺されました。
幕府の権威はどこへやら。
右往左往する幕閣をしり目に、今度は薩摩藩の島津久光が江戸へ向かう勅使に随行して兵を率いてきたのです。
徳川幕府が大きな力を持っているときなら考えれられない暴挙です。
ここから旧一橋派が巻き返しが始まります。
慶喜が謹慎を解かれて将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就任します。
円四郎も一橋家に復帰、再び慶喜の片腕となって働き始めました。
円四郎、暗殺される
円四郎は、慶喜の上洛にも随行し、慶喜は公武合体派の中心となって動きます。
公武合体とは、幕府と朝廷が協力し合って政治を行うことで、尊王思想のある慶喜が、中心となって朝廷と交渉していたのです。
もちろん、慶喜の傍には円四郎が控えていました。
ところが、もともと水戸出身の慶喜。
水戸藩は過激な攘夷(異人を打ち払って日本から追い出す)論者が多く、慶喜も同じ攘夷派だと思われていました。
これは、慶喜を陰で操る不埒な奴がいるはずだ。
慶喜の傍でうろうろしている奴、あいつだ!
目障りなあいつらを消してしまえ!
物騒でとんだ考え違いの果て、円四郎は水戸藩士に暗殺されてしまいました。
元治元年(1864年)6月16日、享年43歳。
向かってくる刃を見て、円四郎は何を思い、そして何を考えながら息を引き取ったのでしょうか。
「馬鹿野郎!てめえら、何にもわかっちゃいねえ。俺にはまだまだやらなきゃならないことがあるんだ。お殿様を支えてやらなきゃぁいけねぇんだよ」
大きな志半ばの円四郎の死は、慶喜にどれほどの喪失感を与えたのでしょうか。
この時期の前後、円四郎以外の慶喜の側近も、次々と暗殺されています。
いずれも、慶喜にとって頼りになる人々でした。
もし、円四郎たちが生き残っていたら、明治維新は、もっと別の形になっていたかもしれません。
幕末の争乱期、こんな風に不条理な死を迎えた優秀な人物は、いったいどのくらいいたのでしょうか。
平岡円四郎と渋沢栄一の出会い
平岡円四郎と渋沢栄一が交流した期間は、ほんのわずかですが、円四郎が栄一に与えた影響は少なくありません。
円四郎は、明治以後の渋沢栄一の道を開いた人物の一人と言えるでしょう。
円四郎と栄一が出会ったのは、甲府から江戸へ戻り、再び慶喜に仕えた頃でした。
円四郎、渋沢栄一を見出す
渋沢栄一は、従兄の渋沢喜作とともに江戸へ上り、剣術の修業や仲間との交流の中で、次第に尊王攘夷の思想を持つようになっていました。
当時の尊王攘夷思想は、天皇を敬い、それを辱める敵(外国)は徹底的に排除するという過激なものでした。
危険な攘夷活動に身を投じようとしていた栄一に、円四郎は声をかけます。
慶喜から家臣として登用するに値するような人物を探すように言われいたのです。
彼自身が、その才覚を慶喜に認められたように、栄一のずば抜けた才覚を見抜いていたでしょう。
円四郎は、栄一に一橋家への仕官を持ち掛けますが、攘夷派としてまさに燃えていた栄一は断ります。
しかし、栄一郎は栄一の聡明さと行動力を買い、こんなことを言いました。
「もし、上洛することがあれば、俺の部下だと言ってもいい」
(攘夷をなすなら、いずれ京都に来るだろう、江戸から京へ向かう道中を無事に過ごすためには、相応の身分が必要だ)
円四郎は、栄一の一橋家仕官をあきらめていなかったのか、それともただ渋沢栄一という人物を面白いと思ったのか。
どちらにしても、円四郎に先見の明があったと言えそうです。
栄一、一橋家に仕官する
円四郎の予想通り、栄一は上洛し、攘夷運動を続けます。
しかし、京は、八月十八日の政変直後で、攘夷派は追われる立場となり、動きにくくなっていました。
八月十八日の政変
会津藩・薩摩藩を中心とした勢力が、過激な尊攘派である公家の三条実美や長州藩を朝廷から排斥したクーデター
生活の糧もなく、次第に追い詰められる栄一。
そんな時、再び円四郎は栄一をに声を掛けました。
栄一の思想とは、真逆の方針を持つ一橋家でしたが、円四郎との話の中で、栄一は自分の未来や日本のその先を見たのかもしれません。
渋沢栄一は、一橋家の家臣となりました。
幕臣となった栄一は、多くの経験・知識を得、その後の多大なる活躍をしていきます。
しかし、栄一の活躍を見ることなく、円四郎が暗殺されたのは、栄一が一橋家に仕官して、間もない元治元年のことです。
円四郎が、慶喜と出会い、慶喜を助けるために、栄一を探し出した…。
彼の生きた意義は、そこにありました。
円四郎について栄一が残した言葉があります。
この人は本当に、一を聞いて十を知るという質で、客が来るとその顔色を見ただけで、すぐに何の用事できたのかをちゃんと察するほどだった。
あの渋沢栄一をして、こんな風に評される平岡円四郎という人は、本当に頭の切れる、聡明な人物だったのですね。
視点を変えて円四郎を見てみよう
最後に、平岡円四郎が登場するドラマを紹介しておきます。
平岡円四郎は、徳川慶喜の側近として、大河ドラマにも出てきます。
ある時は、主人公の敵方、ある時は協力者。
その描かれ方も様々です。
いろんな円四郎を比べてみるのも面白いですよ。
『翔ぶが如く』 1990年
『徳川慶喜』 1998年
『西郷どん』 2018年
『青天を衝け』 2021年
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